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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 「平均律についての考察」こんな意見もあります。勉強になりました。
「最後から二番目の思想」より
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http://www3.atword.jp/pensees/2010/04/07/%E5%B9%B3%E5%9D%87%E5%BE%8B%E3%81%AE%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E2%80%94%E2%80%94nhk%E3%80%8Cschola%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%84%9F%E6%83%B3/
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はる 3469
 こうやってパソコンの前に座って何やら一日の反省なり出来事を振り返る時というのはけっこう幸せな時間かもしれない。

 随分昔そうだなぁ、日記そのものは中学生の頃からつけていた。多分時々だったろうけれど、小さな手帳でカレンダーのつきのものに日々の事などを簡単につけていた。それが意識的に日記として付け始めたのは高校生になって自我が出てきた頃だろうか。何冊も日記帳は更新されたけれど、ある時に全て処分してしまった。

 意外に読み直すことなどなくてね。これはその時々にものを考える道具でしかない。後に残ったものはカスでしかないね。私の場合はっきりしている、それは読む人を意識していないので作品ではない。

 ツイッターをやらないのか?と言われることが時々ある。やった事がないのでいい悪いは全く分からないのだけれど、二三日前のある人のブログにツイッターについての面白い考察が書かれていた。

 ツイッターというのは今までにないかった全く新しい身体的メディアだというのだな。ブログなどと同じようにパソコンや携帯を使って自己表現するのだけれど、決定的に違うのは「リアルタイムな身体的表現が多い」ということだ。どういうことかといえば例えば「寒い」とか「眠い」とか「腹減った」とかそういった記事が決定的に多いらしい。

 人が日々生きている時の意思決定の多くはそういったことで、寒いから一枚よけいに着るとか眠いから寝るとか、そんなことが日々刻々と繰り返されているわけだ。だから短時間にショートなメッセージというのはそんな表現が多くなってしまうのだろう。

 ブログの場合、こうやって椅子に座って、さて今日は何を書こうかなと一日を回顧的に振り返って思索にふけるようなところがあって、ここでは寒いとか腹減ったとか、何か食べに行くなどというのは思索のうちには入らないわけだ。

 と言うわけで私は多分ツイッターはやらないのじゃないかと思う。将来的にはわかりませんがね。あぁ眠いなぁ・・。
 

吉川春水 より勝手引用
http://kikkawaharumi.blog68.fc2.com/blog-entry-874.html
・・・・・・・・・・・・・・・

わたしはただ人生を貧弱なものにし、傷つけ、いじけさせ、そしてゆがめるものは悪だという単純な基準を手ばなすまいとしただけだ
出典:私の二十世紀書店」 中公新書  P94
著者:長田 弘
・・略
1980年から90年の日本のバブル時代が終わってすでに20年、今の日本では、いかに人々の人生を「貧弱なものにし、傷つけ、ゆがめるもの」が多いことか、新聞記事やテレビの報道を見聞きするたびに胸が痛みます。

強者と弱者、成功と失敗、勝ち組と負け組のそれぞれを厳しく区別する今の社会は、人々の心を薄っぺらにし、人を傷つけることで自分を守り、ゆがんだ人生を送る人間を増殖させているような気がします。

強い人がいて成功し、弱い人がいて失敗もする、でも出来るならば、強みと弱みを合わせ持つ世間大半の普通の人間が成功と失敗を繰り返しながら、そこから学び、ある時は勝ち、またある時は負けながら、人としての尊厳を保てる生活を送ることができる。そんな社会になりますように。 ・・略




 
はる 3468
 街中の新しいテナントどうすればいいなかな・・。と全くの無関係な私でも考える。どうすれば利用客が喜んで二度三度訪れるそんな楽しい場所になるだろうかと。誰に頼まれたわけもなく、また多分だれも意見など聞いてはくれないのだろうけれどね。

 こんな話をどこからか聞いた。出店するお店が集まらなかった。だから何だか寄せ集めのようなちゃちな模擬店のような店しか出来なかったらしい。それも出店すれば半年くらいは助成金が出るから、別に商売として売り上げが上がらなくてもいいらしい。それで半年過ぎればさっさと出てゆくわけだ。

 マンションの不動産やを思い出した。田舎の土地持ちに不動産やさんが土地活用の話を持ちかける。「お宅の土地空いてるじゃ活用しませんか、マンション建てて家賃収入で老後は安泰ですよ」で土地を担保に借金させてマンションを建てる。最初は不動産やさんの息のかかったお客さんが店子になって家賃収入が入る。ところが名目だけの住民だからどんどん引越ししてしまう。家賃収入が入らなくて借金ばかりが増えて、やがて土地も権利も何もかも失うというよく出来たはなし。

 今までも街中には空きビルがいくらもあった。旧西武デパートの「県民プラザ」ダイエーが入っていた「市営のあるじゃん」誰も借り手がなくて、苦肉の策ですべて公の施設になっていた。それが分かっているにもかかわらず巨大な資金をかけてまた空きビルを作るその驚くほどの無策ぶりにあきれる。勝算があって昔のビルを壊して新しいビルを建てたのじゃないのか。ほんの一時の場ふさぎ、言い逃れだけのために何百億もの税金を投入したのか。なぜもっと真剣に努力しないのか、テナントが入らないのなら、なんとしても入るように考えないのか。アイデァを出さないのか。不思議だな、あなたたちのやっていることは。

 こんままじゃ、街中に新築の空きビルが一つ増えただけになってしまうだろう。

 



 
 今年は年末に個展がないので、比較的にゆったりとした年の瀬だ。いつもはもっとバタバタとしている。早々に年賀状も書き終えた。

 実は年賀状も徐々に少なくしたいとは思っている。何年も会っていない人ならイザ知らず、メールや携帯、ブログもあるし、パソコンで出力した印刷とラベルを貼っただけの年賀状もらっても手間隙以上のありがたみはないように思うな。ちなみに私は年賀状は手書きしていますよ。

 年賀状の整理もわずらわしい。もらって返事も出さなきゃ悪い気持ちがするから出す、そうするとそれをみてまた来年書いてくるわけだ。当然年々増えてゆく勘定になる。それに出したか出さないかいちいち覚えていない。喪中も面倒だ。ついつい忘れて出してしまう。いいじゃないの喪中に「おめでとう」はないだろうって誰が決めたんだい。

 と言うわけで、一応返事は書かないことにする。今年の年賀状はこれでお終い。ご無礼になったら失礼、ここで謝っておきます。




こたえてください 1997
 
 はる 3466
 健康で絵を描いていられるのは後20年ぐらいかな。もちろん絵は死ぬまで続けてはいけるだろうけれど、活発に問題意識をもって制作してゆけるのはあと10年ぐらいかもしれない。そう考えると有効期限が迫っている。

  



 
はる 3465
 先日隣駅が著名な建築家の設計で建てかえられたというので、ついでがあったので寄ってみた。何しろ今をときめく世界的な建築家なのでただただそれだけで田舎者は恐れ入ってしまう。これでもかという場違いの建物で田舎がよけいに際立ってしまった。道路も満足に出来ていないのに建物だけ世界的なものを持ってきてもちぐはぐだろう。

 地産地消が今の流行なのに形だけ世界で活躍する建築家に頼んでもそこが世界的に有名になるわけでもない。もっと言うなら本当ならそこを利用する地元の建築やさんに頼んだ方が、どう使えばいいかよく分かると思うな。多分世界的な建築家は利便性など全く考えていない。

 北口の開発もどうなっているのだろう。一向に進んでいない。何年か前に国体があって其の時に昔のぼろい駅舎じゃ恥ずかしいということで今の駅ビルになった。北口もその頃にきれいにした記憶がある。大きなケヤキを何本も植えて最近はけっこういい感じになっていた。

 ところが再開発なのか知らないけれど、あっという間にケヤキはどこかに移されて跡形もない。樹ってそんなに簡単に植え替えるものなの?百年二百年その場にあるから御神木にもなるわけで、人の都合で簡単に植え替えちゃだめだろう。芝居の書割じゃないんだからなぁ。

 それこそ百年ぐらいのスタンスでグランドデザイン決めて、将来どんな町にしたいかそんなコンセプトをもってやらないといくらお金かけてもまた引っこ抜いてお終いだ。スクラップあんどビルドばかりを繰り返して町中はどんどん安っぽくなるばかりだ。

 住んでいる人が楽しくなるような、住んでいない人も住みたくなるような町を作らなきゃ、町はどんどん寂れてゆく。どうしてもまだ肩書きやブランド、都会的なものに憧れているんだな。だから「世界的」な肩書きにやられてしまう。そのことが「貧しい」ということに気がつかないのだ。世界的が貧しいのではなく、そこだけに価値を見出してしまう見識のなさが貧しいのだ。

 田舎はいなかでいい。其のところにプライドをもつべきだな。
 
dennenn.jpg
田園調布駅
http://laseine38.exblog.jp/15640220/
より勝手拝借しました。



 
はる 3464
 今日は教室の忘年会。といっても街中で集まってみんなでホテルのレストランでランチを食べただけ。まぁ私がお酒を飲まないということもあるのか、アルコールがないのであまり普通の忘年会らしくはない。それでもワイワイと面白かった。10人足らずのメンバーだけれど、ちょうどこのくらいが適当かもしれないな。

 「平均律6」
 あまり考えてもいなかったのだが、印象派以降の絵画は解体する方向へと進んでいったように思う。「色と形」「リズムとハーモニー」それぞれを純粋に一つの要素として考え始めるとバラバラに解体される。その後さらに進んでピカソなどの立体派によってバラバラになった要素を自分のルールでもって再構成されるようになる。ここまで来るとモチーフの描写から離れて物は形のきっかけに過ぎなくなってくる。

 その後何をしたかと言えば、道具とか材料まで問われることになる。少し前に祖先返りのように絵の具の組成や材料が注目され、キャンバスを手作りしたり下地から作ったりするのが流行ったのは偶然ではない。色んな学校でも急に材料や組成の講義が増えたりした。全く面白いものだ。

 結局やっていることは音楽で言うところの純粋な音(平均律)による作曲を目指していたようにも考えられないか。
 




日本画 小林宏展
第1部 12月13日(月)〜28日(火)
第2部 1月8日(土)〜30日(日) ※一部展示替えあり
午前9時から午後7時
桔梗屋 美術館通店 アートギャラリー
(甲府市貢川1-5-63 TEL055-227-1752)

 



 
はる 3462
 自分の絵を描いている時「絵を描いている」という意識はあまりないなぁ。どちらかと言えば思索している、考えているといった方が近いかもしれない。クロッキーなどをしている時の方が遥かに「絵を描いている」と実感する。この間新聞小説の挿絵の仕事をやらしてもらったけれど、このときは絵を描いている気がした。ということは物を描写したり、写している状態の方が絵を描いているようだ。

 あぁ今日もまた眠くなってしまった。すんません、また明日。
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