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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 2761
 松岡正剛の「白川静」を読んだ。帯には白川静の初の入門書と書かれている。今さらながら白川静はおもしろい人だ。氏の漢字の話の中には絵のテーマになる事やヒントが山のように隠れている。何年か前の「かぜのおとづれ」のテーマも実は氏の「風」からヒントを得ている。

 「訪れる」とは実は「音を連れてくる」から来た言葉だというのが、なんとも衝撃的な示唆だった。目に見えないものは音で感ずるしかない。風は見えないけれど、風が連れてくる音でその存在を知るというのだ。

 漢字の中には古代の人の心の有り様が隠されている。漢字は単にアルファベットなどのような記号ではない。その中に古代の人が何を感じ、何を欲していたのかというのが見える。で、それは古代の人だけのことなのかといえば、実は今の私たちのも共通する普遍的な人の心の有り様が見えるのだ。ここのところが実に興味深い。

 言葉というものは単にものを説明するだけのためにあるのではない。こうであったらいいなとか、このことは避けたいとか、嫌だなというふうに、人の思う形が言葉となって生まれてくる。「言霊」というけれど、「ことば」にはそういった人の想いが必ずついてくるものだ。

 人が動物でなくなった時に一番感じたのは「恐い」という感覚だと思う。暗い森には何かがいて、すきあらば我々に襲い掛かろうとしている。知らない事、見たこともないこと、予測のつかないことは、恐怖だったのだ。その恐怖や不安の感情を如何にして克服するかというのが、言葉の始まりのような気がする。まず人智を超えた大いなるものがいた。そしてそれらに祈ったり、占ったり、呪ったりすることで、とりあえずの安穏を得たのではないかな。

 色々衝撃的な言葉が語られているけれど、例えば私のペンネームであるところの「あそぶ」(遊)という字がどうやって生まれたかというのもなかなか示唆に富んでいる。

 元々の「あそぶ」とはまぁ夢中になってわれを忘れることをいうのだが、そういった忘我の状態を「神がかっている」「神が降りてきている」と考えた。

 漢字の「遊」という字と多少なりとも意味がずれてはいるのだが、「遊」のもとの意味は「方」(旗)を持った「子」(人)が歩いている形からきている。何故旗を持っているかと言えば、昔の人にとって自分の住んでいる場所から離れることは魔物が住んでいる異界に行く事であって、恐かった。故に自分たちの民族の守り神が降りて来易いと考えた旗をもって歩いた。

 事ほど左様にすべからくに「かみがいた」ということなんだな。まぁそれほど不安で恐ろしかったという裏返しではあるのだけれどね。まぁ「罰があたる」とか「お天道様が観ている」とかそういった「おおいなるもの」の存在を身近に感じられない現代の人は案外不幸なような気がする。

 
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はる 2760
 特にどこにも不調はないのだが、二ヶ月に一度は病院の定期検診を受ける。これは検診というよりビタミンB12の補充に行ってるといったほうが当たっている。鉄分とかある種のビタミンは胃がないと吸収されにくいとかで、直接注射で体の中に入れる。まぁ他に特別薬を飲んでる訳でもないので、大きな病気をしたわりには予後がいいようだ。ありがたいことに。今日は午前中その定期検診だった。
 



 
はる 2759
 100号を含めて梱包をする。額装をして梱包するのはけっこう面倒な作業だ。特に100号クラスになるとダンボールもかなり大きなもので、普通のホームセンターでは売られていない。随分昔、コンクールに出品した時に業者さんに頼んで返却されてきたのも取っておいた。もう何度も行ったり来たりしているのでボロボロになってしまったけれどね。

 小さな額は画材店にオーダーした時にダンボールに入れて、そのまま運搬できる状態で送ってもらう事にしている。そうすれば一つ一つの箱も傷まなくてすむ。細かい事だけれど、こういった箱は化粧箱としてオーダーしたものでけっこう値のはるものだ。

 工芸品なんかは特にそうだけれど、箱がけっこう大切な要素になる。作家直筆のサインがあるかどうか、などなど・・。作品そのものとは関係のないことだけれど、ある種の見せ方、様式、価値の変換の仕方ではないかと思う。

 額も選ぶのが面倒になるほど色々ある。額によって作品の見え方はうんと変わってくる。ぴったりと合った額はその作品の価値を何倍にも見せてくれる。ただ私の今の作風の場合、額まで一緒に描いているようなものなので、出来るだけシンプルなボックス型がいいと思っている。色々考えなくていい分楽だな。

 本当は少し手を加えた方がいいのだけれどね。 

閑話休題
 臨時雇用と言えば私なんかももう30年近くそんな感じで、毎年3月に管理職から来年もやりますか?などと聞かれる。ここでやりませんと言えばそれで契約はおしまいという、実にあさりしたものだ。毎年履歴書と免許書の写しを提出するたびに、あぁ俺は臨時採用なんだと気付かされる。

 非常勤講師という仕事は、外から見れば普通の教員と大して違いはないようにみえるけれど、実は全く違う仕事だと思う。職業とはいえない、身分的には学校の先生だけれど、これほど不安定で何の保障もない、使い捨ての仕事はないだろう。保険も勿論失業保険も年金も健康保険さえない。二ヶ月に及ぶ長い夏休みや、春休みは当然賃金は支払われない。

 試験になれば当然授業はない、そういった学校行事で授業がつぶれた場合も休業補償などされない。生徒のために残って補習しても当然時給はつかない。

 だけど、そのことで文句を言った事もない。なぜならそれを承知で請け負っているからだ。非常勤講師というのはそういった仕事なんだ。だから病気をした時の多少の準備も必要だし、働けなくなったらどうするのか、ある程度の覚悟が必要だ。そういった心づもりもなく、ただ単にその日暮らししているのは、羨ましいけれど無謀だな。責任は自分にある。政府が何とかしてくれるとか、周りの温情にすがっているのはお門違いだ。

 何とかしろと圧力団体のように抗議している姿は同じ風来坊として恥ずかしい。もっと根性くくらんかい、とそう思うのだ。

 


Iさんへ
「聖書を読んだわけではないのですが、こういった話になるとあることを思い出します。一片のパンしかなくてそれを今皆で分けてしまった。明日のパンはどうするのか弟子がキリストに尋ねた。「明日の事は思い煩うな、今日一日の事はそれだけで充分だ」

 どうしても明日のパンの事ばかり考えて今日一日を充分に楽しめない自分いる。命を預けてしまう。それは美の神へのささげものなのかもしれないけれど、そうしないと本物にはなれないのかもしれませんね」



 「記念日」部分
 今年、銀婚式らしい。別に何もしないけれど、あれから25年も経ったか。相方よりあまり個人的なことは書かないでほしいということなので、ほとんど話題にもしないのだが、いつのまにやらそんな年になってしまった。夫婦はお互い様、われ鍋にとじ蓋 みたいなもので、どっちもどっちだな。全く赤の他人が何年も同じ屋根の下でくらしているのだから、不思議といえば摩訶不思議。まぁこれからはどんどんお互いに年取って行くのでね、ますます寛容になってゆかねばと思っている。じっくりゆっくり楽しんでやって行ければ、それでいい。
はる 2757
 仲代達也が新聞で面白い事言っていた。役者というのは万年失業中なんだ。その芝居ごと雇われて、終ったら失業状態になる。失業保険もないし、年金もない、病気になっても何の保障もない」。彼のクラスになってもそうなんだ。だからまぁそれが普通であって、特別な事ではない。うろたえるなとね。やりたい事やるということはそういうことなんだ。それだけの覚悟があるかどうかということだろう。

 役者に限らないけれど、芸人などという奴は河原者、風来坊、元を正せばどう観てもまともじゃない。歌舞伎俳優など今じゃ名門などと言っているがね、よくよく調べてみれば士農工商の枠外に存在した流れ者でしかない。世間からはみ出せばはみ出すほど歌舞伎者として一流となった。

 庭師や石工、生け花やお茶もそうかもしれない。芸事のルーツは全て流れ者だ。だから面白いのだな。

 



ここが私のコックピットみたいなものか。ごたごたと無秩序にものがある。左の方には家電とファックスがある。しかしまぁ家電などこれからどうなってゆくのかな、ネットで使わない人には無用だよな。携帯がこれだけべんりになればね。

 何処かのブログを読んでいたら、こんな事が書かれていた。人類は地球にとって癌細胞みたいなものだ、ってね。確かにそんな気がするね。最初はね、人類も可愛いものだった。けれどここのところの様子をみていると完全に癌化しているね。癌も共存している内は生きてゆけるのだけれど、寄生主そのものが死んでしまえば元も子もない。今はそんな感じだよ。

 「地球に優しい」なんておこがましい。だれがいたぶっているんだよ。地球にとってはお前に言われたくないっていうだろうね。癌の分際で何言ってんだ!お前がいなくなるのが一番優しいんだよってね。まぁいずれ人類は長くないとおもうね。これだけ増えてしまってやりたいようにやってしまったんだからね。いまさらエコだエコだと叫んでも遅い気がする。

 眠くなった。また



 
はる 2755
 年々正月らしさが感じられなくなる。正月が楽しかったのは小学生の頃までかな。絵に描いたように独楽をまわして、凧揚げをして遊んでいた。低学年の頃はテレビもなかったしね。そんなことして過ごすしかなかった。

 住宅事情が悪かったのか、暖房設備も充分でなかったので、随分と寒かった。なんせ家には火鉢ぐらいしかなかったからな、寒いはずだよ。

 据え置きのラジオがあってね。もちろんスイッチを入れるとすぐには音の出ない真空管だった。大きさは小さな洗濯機ぐらいあった。天井部分が開くようになっていてレコードがかけられるようになっていた。家にあったレコードで覚えているのは誰が唄ったのか、五木の子守唄だった。家族がそろってミヤコ蝶々とナントユウジの「夫婦善哉」なんか聴いていた。休みの日は浪曲の放送なんかがあって親父が良く聞いていた。午後10時になると「ミオツクシの鐘」をあいずに電灯を消して寝るといった生活だった。

 まぁそれでも今よりおめでたい感じはあったな。
 



 
はる 2754
 不況の嵐でリストラにあっているサラリーマンなんかも多いかもしれないなぁ。日本はまぁ昔から終身雇用制が長くて、一度就職してしまうと衣食住すべての面倒をみてもらうかわりに、おやかた様には絶対服従みたいな、一種の小さな封建体制のような雇用形態を取っていた。もちろんそういった主従関係は悪い面も多いけれど、慣れてしまえば,安心とか安泰とか安住とか安堵とか得られやすいのかもしれない。

 会社の規模が「・・商店」クラスの大きさの商いならそれでも成り立つんだろうな。人には色んな能力があるのだけれど、まるっきりお荷物な人材でも、小さい商店ではそれなりの仕事が与えられて生きて行けたのだろう。

 何時の間にかね、効率が全て、能力が全てということになったら、どうしてもそういった社会からあぶれてしまう人が出てくるわな。社会というのは色んな人がいて成り立っている。病気の人もいるし、今生まれた人から明日にも死ぬかもしれない人がいる。身体的にハンディを持っている人もいれば、喧嘩っ早い人もいれば、能力がまるでない人もいる。

 役に立つ、便利だ、効率がいい、有能だ、という何だろう、一方的価値だけで世の中が判断されると、どうしても半分のひとはあぶれてくるだろうな。えい、もいどうでもいいや、とやけになる気持ちも良くわかる。

 例えば反対を考えれば、役に立たない、不便だ、非効率、無能だということになるな。落語の世界はよく出来ていて、今言ったそのままな熊さん八っあんが知恵者のご隠居さんとのやり取りで、どうにかこうにか生きている。究極的なスローライフって訳だな。

 派遣をリストラされた人に臨時の職をなんてやっているけれど、これはねぇ上から目線の発想のような気がするな。そんなものじゃ本質的な解決にはならんのじゃないかね。まぁ一時凌ぎにはなるけれど。まぁちっと冷たいけど、派遣というのはもともと臨時雇いという意味でしょう。正規社員じゃないから要らなくなったらポイされるのはしょうがない。正規採用をリストラされたんとは大きく違う。就職しないで生きるには根性がいる。

 結局ねぇ今の社会から必要ないといわれているのだから、とっととそんな社会からドロップアウトしてしまえばいいのだ。まだ一人前に有能な人間の幻影を担いでるから生きてゆけないなんて思う。

 田舎がある人は田舎に帰って小さな畑でも田圃でも耕せばいい。晴耕雨読、自分ひとりぐらいなんとか生きてゆけるだろう。それもダメなら根性決めて、お経の一つもおぼえての漂泊の旅にでる。日本はまだそういった行者には優しい所があって、一宿一飯恵んでくれる人もいるだろう。喜捨すれば浮かぶ瀬もある。やがては我々全てが同じ道を行く事になる。
 


はる 2753
 2009年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 



百年に一度の大掃除
 
 今日は大掃除。普段めったに掃除しない棚の上のガラスの花瓶も掃除する。塵も積もれば何とやら、ふかふかの絨毯のよう??

 午後からはご無沙汰のご先祖さんの墓参り。そのままいつもお参りしている神社に今年の報告参り。来年もいい年でありますように・・。

 これで今年はお終いです。一年間どうもありがとうございました。また来年もよろしくお願い致します。
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