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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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くだらない時代小説が好きで、いつも懐に文庫本をしのばせている。テレビや映画と違っていつでもどこでもホンの少しの時間でも読むことができるので、時間つぶしにはもってこいである。普段の生活の中にはけっこう細切れの捨て時間というものがあって、何かをやるには足りないけれど、ただ漫然と過ごすにはもったいないという時間が多い。例えばちょっと買い物に付き合って車で待っている時間とか、ご飯を食べて満腹になって少しごろんと寝転んだ時とか、夜寝る前のまどろみ前の数分とかね。

 こんな楽しみを発見したのは最近の事だな。もっと昔子供の頃から読書の楽しみを知っていたら、もっと違った人生だったかもしれないな。すこし損した気分。

 そんな馬鹿小説でもところどころいい言葉がある。まぁあまり書き留めることもないのだけれど、下の「善人は不善人の師、不善人は善人の資」という言葉に何かを感じた。前半の「善人は不善人の師」これは分る、でも後半の「不善人は善人の資」って何だと思った。まぁ元々は老子のはなしだそうだから、どこか人を食ったようなたとえ話なんだろうけれどね。

 その「天秤」をもった女性のタイトルを考えていた。昔からこの天秤というのは「善悪のはかり」と言う意味で象徴的に用いられることが多い。最後の審判ではないけれど、人生の最後に今までやってきたいいこと悪いことを推し量られて天国に行く人と地獄に落ちる人がジャッジされる、そんな意味かな。

 んでまぁ、完全に善だけの人なんているのかな、反対に悪だけの人というのもいないのじゃないか。いいと思った行為も違う面から見れば悪だったということもあるわけで、反対に最悪だとおもったことも、取り方にによれば良かったということもある。

 善と悪は表裏一体のもので、必ず両面あるんだな。だから簡単にこれは善、あれは悪とは決め付けられないということだな。「不善人は善人の資」というのはそのことを言っているんだと思ったわけだ。
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