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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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8/3



 
  昨日で銀座のグループ展も終わって、今日はまた千葉の山口画廊の個展も終了した。8/8から8/19まで神戸のギャラリー島田で恒例の小品展を開催します。出品作家の数も100名を越えますが、私も一点出品しています。良かったら見てください。まぁ取り合えずこれで、今年の夏の陣は終了、これから年末から来年にかけての個展の作品にかからなければならない。時間の余裕はそれほどないなぁ。50点から60点以上描かねば間に合わないだろう。

 展覧会はそれぞれに趣旨が異なる。グループ展はメンバーの親睦という意味合いが大きい。本当の趣旨はそこではなくて会の新人の紹介という意味合いが大きいのだけれど、新人と言うには初々しさにかける。みんなもうすでにかなり活動歴をもっているからな。でもまぁそういった意味では面白かった。

 個展は自分の一番大事に展覧会だ。とにかくこれが全てと言っても良い。

 少し疲れた。

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ミニアチュール神戸展
「こころにはなを、」
2009 8/8~8/19
ギャラリー島田
神戸市中央区山本通2-4-24
078-262-8058

 
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はる 2956
 地元の駅前の路線価が一時の十分の一になったそうだ。100円のものが10円になったということで、まぁこれだけ落ちれば反対に何も怖くないと居直るしかないだろう。何もしないでただ眺めているだけでは多分もっと落ちるだろうな。他人事ながら寂しい。

 東京近郊の田舎というのはどうしても都会の吸引力に負けてしまう。特に活動期の若い人は地元で働くより魅力的な都会に行きたくなるのは止めようがない。かつての自分達がそうであったし、地元の街がどうなろうと知ったことではない。勝手にしてくれ、私は街に出ますということだ。

 今のここには何の魅力もない。何とかしなければという気概もない。街のお役人は自分の給料さえ確保してくれれば、街など放っておいても痛くも痒くもないようだ。まぁ役人が何とかできるものでもないかもしれないけれどね。

 さてならばどうする?

 都会と同じことを志向してはだめだと思う。都会の魅力で勝負すれば、東京にはどう頑張っても負ける。銀座通りと名づけること自体腹を見せているようなものだ。

 一昨日のスローフードの設立総会に参加して、新しい農業を試行している若い人や、ワインや醸造関係の何代目かの当主が集まって都会にはない、ここでしか実践できない生き方を試行するそんな気運が熱く感じられて面白かった。

 単に自分達の領域の利益だけを考えて、例えばワインの売上をどうすれば伸びるかとか、効率よく観光客を呼ぼうとか、そういったことだけを考えると、今までと同じような利潤追求型の便利・効率がすべてという発想と同じことになってしまう。資本は大きい方がいい、儲けは多い方がいい。確かに資本主義社会だからその通りなんだけれど、言ってみればそれで人間は幸せになれたかい?とうことだ。

 これは凄く大きい文化運動である気がしている。ゆっくり食べることはゆっくり生きることであり、食も着ることも住む事も全てひっくるめてゆっくり楽しみましょうよという文化運動でしょう。

 考えてみれば戦後日本は貧しかった。凄く物質的に豊かなアメリカにあこがれた。まぁこれに追いつくために色んなものを捨てて効率と便利を優先して駆け上がって来たんだな。その甲斐あって物は豊かになって、食い物に不自由することはなくなったのだけれど、そのかわり生活に余裕がなくなった。

 人の楽しさは何だろうか。確かにゲームやケイタイでバーチャルなコミュニケーションが成立しているようだけれど、いっせいにケイタイの画面を覗き込んでいる姿は異常ではないか。

 例えば壁に絵を掛ける習慣が無くなってしまった。昔は、そう床の間があったり玄関にちょっとしたスペースがあったりした。四季折々の花や額を飾ったものだ。今はそういった住に関しても楽しむ余裕がなくなった。絵だけ売ろうとしても生活そのものに絵を楽しむ習慣がなくなってしまったのではありえないわけだ。

 まぁ遠大な計画だけれど、意味あること、意義あることのように思うのだけれどね。

 



 
 明日から千葉の山口画廊の個展が始まります。長丁場でオーナーは大変でしょう。私などはそのうち二三日出かけるですから、無責任なものです。作家は偉そうにしている方がそれらしくていいようですが、私は元々外見が不遜なので少しはヘコヘコした方がいいのかもしれません。

 作品はずっと飾ってありますが、私は18,19,20の午後ぐらいまでしかいません。どうかお暇をつくって訪ねてみてください。ということでまた。



 
 今日は一日美術館でボランティア。このたびの受賞者の表彰や懇親会など。その前に総会があって今年度の事業などを決める。日曜日なので会の多くのメンバーが出席するかといえばそうでもなくて大体が決まった人しか会場にはやってこない。

 いつものことなんだけれどね。どうなんだろうか。絵描きは絵だけ描けばいい、余計な仕事は絵を描く邪魔になることはあっても益にはならないぞという方もいる。そこのところのいい解釈がまだ出来ないでいるのだが、勿論時間はとられるし、人間関係も煩わしいところもある、けれどねぇ全部がぜんぶ必要ないことかね。やれる人がやればいい。それもまた見識だとは思うのだけれどね。



 
 人の意識が入る前の下塗りの段階では全てが美しい。どこかで上手く描こうとか、何かが見えてきだすと、しだいにつまらなくなる。エコだとか、地球にやさしいなどというのは意識が見えすぎて美しくないな。それでもやらないよりはましかもしれないけれどね。



何かしら色々な物語が出てきた。上手く紡げたものもまた消えてしまうものもある。
 
 人間などという鬼ッ子のような生き物がなぜ生まれたのだろうか?マクロ的に見れば人類に限らず生物全般はこの地上に寄生したカビみたいなものだ。まぁ栄枯盛衰はあるけれど、お互いに共生しながらここまでながらえてきた。それにしても人類はここに来て勝手気ままに暴走しすぎる。地球が何年もかかって化石化して閉じもめてきた二酸化炭素を百年そこそこで吐き出そうとしている。コントロールできない核の脅威、オゾン層の破壊、遺伝子の操作などなど、ほとんど神の領域まで達しようとしている。で、他の生物を絶滅に追い込んで、いまだ増殖を続けている。エコだ、地球にやさしいなどと言っているが、結局のところ自分が少しでも生き延びたいからで、誰に対してやさしいといっているのやら、地球にとってはおまえらの存在が迷惑だと言われそうだ。

 コンピュータというのがいったいどこまで発展するのか、記憶の媒体としては、ここ10年ほどで考えられないくらい発達した。私のPCはウィンドウズ98の骨董品だが、このPCにはCDの再生装置さえ付いていない。別売りの機器を買ってつけた。当時はもっぱら記憶の媒体はフロッピーだった。それからOMなどというコンパクトなものも出始めていた。CDが出てきた時にはその容量のでかさと安いことに驚いた。それが最近はフラッシュメモリーが主流でCDの装置さえ付かないようになりつつあるらしい。何ともはや??時代遅れだ。

 不老不死は人類の長年の夢だ。生身の肉体ではそれは無理だろう。あらゆる宗教も神さんも、魂の永遠などという嘘か本当か分からんものを持ち出しているけれど、まぁあの世というのかあちらの世界は物語としては面白いけれど、多分存在しない。そんなものを期待しては当てが外れるよ。

 もうすでに研究している人は多いと思うのだけれど、人の記憶とか遺伝子情報を電脳情報に全て置き換えてしまえば、ある意味で肉体は要らないわけで、実際にはこの世に存在しなくても電脳上には生きているというそんなことが可能になるかもしれない。理論上不老不死となる。もっと考えれば電脳上で遺伝子の交配ができてあなたと私の子孫が電脳上で存在するなどということがありえるかもしれない。まぁこれはねぇマトリックスの世界みたいでありえない想像上の世界ではない気がする。

 人がこの地上に出てきた訳は案外そんなところに目的があったのもしれない。究極的にはありとあらゆる生物がこの地球上に現れてそして絶えていったそんな歴史や情報がが一編の詩のようになって光媒体に乗って宇宙に向けて発信されるのだ。どこでどう受け止められるのか分からないけれど、それが届いた世界でそこからやがて新しい生命が生まれる。遠い昔の地球のようにね。


 
 はる 2909
 今日は忙しかった。

 人の一生など簡単なものだ。訳なく過ぎてしまう。過ぎてしまえばはやいものだ。例えもう一生あるとしても代わり映えのしない一生になるだろう。私という人間が変わらない限り変化もない。

 我々ひとり一人はDNAの乗り物に過ぎない。どう生き様が彼らの知ったことではない。善人もいれば、何故こんな人間がこの世に存在したのかという極悪非道の人間もいる。善人だけ、必要な人間だけこの世に存在するとすれば、人類などすぐに滅びてしまったのではないかな。面白いことに善がそこそこあるように、悪も適度に必要だということだ。

 細胞は日々新しくなってゆくわけだから、ほぼ永久に生き長らえて行くように思うのだけれど、どれだけなのか分からないのだけれど個々の細胞には寿命が決められていて、ある程度永らえたら再生できないようにプログラムされている。DNA君は古くなった乗り物を捨ててさっさと新しい快適な物へと乗り換えてゆく。

 この地球上にとんでもなくバラエティに富んだ生物が存在するというのも、実はありとあらゆる場合を想定してDNA君が死に絶えてしまわないようによく考えられたシステムのように思う。一度途絶えてしまったDNAは多分二度とは復活できない。

 個々の我々に存在の意味や意義ははっきりいってない。トータルとして少しでも遠いところにバトンを渡すそれだけのことだ。

 DNA君の大きな間違いは人に考える脳を生じさせてしまったことだ。これは多分予想外のことだったのではないかな。この頭脳をもったことで、DNA以外の遺伝子(言葉)を人は持ってしまった。DNAは思考しない。考えることがない。それに比べて頭脳は迷う、悩んで、ゆらぐ。生物学的な遺伝子と作為的な我々の意思がどこかで対立して、両立できないとこに不幸があるように思うな。
 
 まぁ、それもこれも神の配剤だといわれればそうかもしれないけれどね。

 



 
 今年の夏から来年の春にかけて個展が3つある。これが多いか少ないか作家によるのだろうけれど、私にとってはこれが限界だな。特に来年の頭にある個展は銀座のデパートの前回と同じでかい会場が計画されていて、この時期にあの箱でやるのはけっこうプレッシャーがかかる。本来それほど大衆的受けする絵柄ではないので、大入り満員は期待できないな、まぁ淡々と今まで通り自分の仕事を見せてゆくしかない。それでだめなら仕方ない。

 私の作品はキャンバスに描かれたものではない。よく誤解されるのだが、油彩画ではないのだ。日本画のようにパネルに綿布や麻布を直接水張りしたものを使う。これが又数が多いので、けっこうな作業ではあるのだな。やる時には一度に50枚ぐらいの水張りをする。

 この間、阿修羅像が乾漆造だというのを読んで調べてみる。漆という自然素材を使ってはいるけれど、その上に麻布を何枚も貼りこんで、さらに木の粉やオガぐずを漆に混ぜて形を整える。これって今のミクスメメディアではないかと思った。



 
はる 2904
 この間の心の拠り所の続きかな。もう少し考えてみたい。徒然に書くので結論のでる話ではない。

 人はというのか万物はと言っていいかな。我々のような意志をもったものも、また自然や生命をもたない無機物でさえ、ある一定の方向性を持っている。それは物事は一番安定したところに向かうということだろうかね。

 命があることは、ある意味凄く不安定な状態にある。ちょっとしたことで傷ついたり、また病気になったりしてその命そのものは消えてしまう。消えてなくなってまた無機的な状態に戻ってゆく。それがまだ知りえる形では一番安定している状態だからだ。

 時空を短縮したり伸ばしたりを考えに入れれば、物質そのものもそんなに安定したものではない。前に話したように宇宙は猛烈なスピードで膨張しているように見えるわけだから、他の星から見えれば我々も光のスピードでこの宇宙ー空間をぶっ飛んでいることになる。最終的には素粒子になってまさに宇宙の塵となってばら撒かれることになるだろう。千の風どころの話ではない。

 そうは言っても、生命をもったものの第一の使命は「①自己の個体を維持することであり②自己の遺伝子を残す」ことにある。この世に雌雄が存在するのはそういったことを踏まえて、出来るだけ柔らかに変化しながら、自分の遺伝子を残してゆけるからにしぎない。強いものが残るのではない、変化できるものが生き残るという大きな法則があるからだ。それもまた不安定なゆらぎの中で微妙にバランスを取りならが存在している。そんなところがはかなくて美しい。

 そろそろ本題に入ってゆこう。やってはいけないとか、なってはいけないとか、こうなったらどうしようと意識することは、こうありたいとか、こうなりたいと願望することとほとんど変わらない強い力だ。負の力(オーラー)が強い分天秤にかければこちらの方が勝つだろうな。

 人は人間になる前に(自己の意識が芽生える)かなり多くの禁止事項学習する。あれはいけない、これはだめだ、それもこれもだめだめだめ。言葉にはされなくても物心ついた頃はそういった柵の中に閉じ込められている。多分意識はされないかもしれないけどね。あまりこれはいい、こうしよう、と誉められておだてられて育つことはないのだな。親とか家庭と社会とか組織とかいうものはそういったものだろう。私の家はそういった意味ではかなり放任主義ではあったのだけれど、だからこそ反対に目に見えない大いなる力で説き伏せられているような妙な圧迫感があった。

 不安とか心配の大元は自分の心の中にある。それは天が落ちてきたらどうしよう、明日のパンがなくなったらどうしよう、こうなったらどうしよう、おろおろするだろうか、恥をかかないだろうか、そんなところから出てきているように思う。なんとも暇な話だ。

 とりとめもない話の展開になってきた。今日はここまでかな。
 
 
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