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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 昨日の話したギャラリーのシャメです。下がそのクートラスの画集。その画集にクートラス自身の言葉が残されているのだが、無断でその部分を引用する。
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Robert  Coutelas   Mes  Nuits 「僕の夜」
「立ちのぼるブーケ,気つけ薬として」p98,99より
岸真理子・モリア
「僕は描かなければいられない。だから毎日絵を描くし、紙がなければ地下鉄の切符にだって描くだろう。材料とかテクニックは二次的なことさ、たった一つ大事なことは、何かを探しているってことだよ」・・中略・・クートラスには、本質的に旅回り画家的なところがありました。「僕がバイオリン弾きだったらねぇ、通りで演奏して、生活できるのになぁ。」と言っていました。本当にジプシーのバイオリン弾きみたいに、旅回りしながら絵を描いて、生活してゆくことが出来たら幸せだったでしょう」・・中略・・
「クートラスにとって芸術は聖なるものの探求だったのかもしれないません。そんな風に思うのは、彼の言うpatronが神様のことのような気がするからです。究極の無神論者だったとも言えるクートラスが、存在の深みからほとばしり出した作品には、聖なるものが宿り、それが人の心の聖なるものに、生命に直接語りかけてくれると信じていたからです。・・略」
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 昨日色んなギャラリーのはしごをしてまわったのだが、その中でたまたま私の作品(お面)を持っている方がいて、その時にはお会いしていなかったので初対面であった。その人の家は代々神主さんで、どうしてそのお面を購入したのかという話から、その表現の奥にある「いのりのかたち」の話になって、思わず意気投合してなかなか面白かった。多くはないけれど、こうやって長く活動しているとどこかで共感を持って見てくれている人がいるもので、やっていて無駄ではなかったんだなとうれしく思った。
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無題
つまりこれは托鉢僧として生きる事。自分では持たず、耕さず、托鉢によってのみ生きてゆく仏教の修行者のようですね。あこがれというよりも、人間の一番根っこのところに、こういう生き方を望む強い渇望があるように思います。
飯野 2010/10/22()22:16:14 編集
無題
 そうですね、少し前のバラモン教のところで書いたように、人は最終的には少々ぼけて、自分が誰かさえもよく分からなくなって、夢なのか現実なのかそれさえも曖昧になって、それでも托鉢が許されていて、やがては野垂れ死にするというのが真っ当なのかもしれませんね。
はる 2010/10/22()23:11:10 編集
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