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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3033
 非常勤講師という仕事は教師ではあるけれど普通の先生とは違うところが多々ある。生徒からみれば普通に教壇に立っている先生に過ぎないのだけれど、その内実は大いに違う。

 大体において講師の先生方というのはその学校の真の構成員ではない。身分的には付録のような扱いを受ける。自由ではあるがその自由は「あぁあなた達はかってにやっていていいんですよ」的な自由であって、充分に実力を認められた真の構成員としての自由ではない。

 まぁそれもこれも踏まえて講師になったわけだから、何やかやと文句をいう筋合いではない。ある意味で時給が他の仕事よりいい、肉体的に楽だ、時間も融通が利く、比較的に休みが多い、そんなことで今までやってきた。けれどそろそろ卒業したいなぁ。

 27年もやってきて言うのも妙だけれど、やはり適性がないということかもしれんな。未だに授業のある日は腹具合がおかしくなる。一日に何度もトイレに行かなくてはならない。まるで登校拒否の小学生のようだ。どこかで無理をしているということだろうな。それを少し検証してみよう。

 極々当たり前のことだけれど、決められた時刻に必ず行かねばならないというのが、これまた苦痛なんだな。何を当たり前のことをというかもしれないが、生徒に遅刻は絶対にしないようにと言った手前必ず30分前には教室にいて、換気したり準備して生徒を待ち受けている。そんな自分に疲れてしまう。

 仕事を始めたら私語は厳禁で、少しのゴソゴソが気になってしかたがない。自分で決めたルールに自分で縛られるみたいなところがある。いいかげんなずぼらな性格のくせに何故かこんなところだけくそ生真面目なんだろう、もっと余裕をもって生徒に接すればいいものを何故か余裕のない自分がいる。自分の容量のなさを知られるのが怖いのだろうか。

 選択ならまだしも必修なので、40人いれば半分は興味を持っているが他の半分はやる気がない。興味のない人間に教えるほどむなしいものはない。やる気のない生徒を如何にやるきにさせるか腕の見せ所なんだけれど疲れたなぁ。ありがたいと思ってくれるならやる気にもなるがね。

 もっと本質的なことがありそうだけれど、まただな。

 
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はる 3034
 大きな台風ということで少しばかり警戒して雨戸を閉めたり準備をしていました。朝七時ごろ風の音で起こされてそのままテレビの情報を聞きながら、コタツで少し眠ってしまったようだ。雨も風も予測していたよりは少なく、まぁ安堵しました。

 午後からは台風一過の上天気で、毎度のことだが青空が抜けるようでそれだけでもチョビット幸せな気分になる。雲が飛ぶように流れていた。明日はフェーン現象で暑いかもしれない。

 甲府展のDMできました。希望があればメール下さい。地元のかたは11月に入りましたら郵送します。お待ちください。
 
 10月に入ってたくさんの展覧会のDMが来る。県内の個展は出来るだけ行くつもりではいるのだが、東京や他の地方の展覧会まではちょっと行けない。まぁ出すほうもお知らせのつもりだとは思うのだけれどね。でそのDMを見てどうしても見ておきたいと思うような案内状がないのが寂しいね。特に何回もやっているグループ展になるとDMの絵が小さくなるということもあるけれど、どうしてもきて欲しいという熱意が感じられないな。自分のを含めてだけれどね、気をつけないといけない。



 
はる 3031
 今たまたまテレビを観たら、クローズアップ現代で「たすけてと言えない30代」などというくらい話をやっていた。なんでも少し前は50代とか60代がリストラにあってホームレスになる場合が多かったんだけれど、最近は30代がけっこう多くなったそうだ。

 まぁ彼らはやる気になれば肉体労働だって何だってやれるんだろうけれど、何というのか生活の質を落とせないとか「負け」を認めたくないとか、かわいそうだと思われたくないとか、こうなったのは自分のせい自己責任だからと考えてしまうから余計に人様に迷惑をかけられないと考えるらしい。だからいいかげんな奴はそうはならない、生活保護でもなんでも申請で来ちゃう人はいいのだな。それが出来ないから隠れてしまうのだ。何かのきっかけで出社拒否、そしてホームレスになってしまう。

 構造的な問題もあるだろうな。仕事としてはほんの少しの頭脳労働者と多くの使い捨ての単純労働者がいればこと足りるという社会になってきたものね。だからそのトップ25%にはいるのに過当競争だな。ただし最近は裕福な家庭育ちでなければそんな学校にも入れないそうだから、ますます格差は広がる一方だろう。

 コンピュータ社会になればなるほど仕事はマニュアル通りになるだろうし、スピードは求められるし、結果も求められる。

30年も前に何となく漠然と考えていたことが、どうやら本当らしくなってきて最近はまんざら間違っていたのじゃなかったのだなと思って来た。それは仕事についてなんだ。

 今就活とかいって学生が仕事を求めて色んな面接を受けたりしている。新採用が一番買い手が多くてそれにもれると中途採用ということになって5円安になってしまう。だから職種を選ばないで何とか名のある企業へ就職したいというのは人情としてよく分かる。今も意識は我々の頃とさして変わらんだろうと思う。

 私にはどうしてもやりたい仕事がなかった。皆が髪を切って嬉々として就職活動しているのをうらやましくもあり、何故何の抵抗もなく就職できるのか不思議でもあった。だから就職試験など一社もうけなかったし、面接にいったこともない。

 どうしてもやりたい仕事がないなら手に職をつけることだと考えた。今でもそう思う。でとりあえず陶器の工房に弟子入りした事は書いたことがある。

 しかし、その考え方は間違ってはいなかったとは思うのだが、世の中は職人を必要とする生活ではなくなった来たんだな。例えば着る物は海外で作った安いものででも充分に役に立つ。ミシンが上手に使えてもジーンズのすそ上げぐらいにしか使えない。食べるものもどこで作られたか分からんようなレトルトが普通の食卓にのる訳だし、外に行くけばファーストフードやコンビニのお弁当やファミレスのマニュアル通りのレシピがある。味覚はジャンクフードで鍛えられて本物の味がわからない。住もまたどこの国なのか分からないような住宅展示場のようなツバイフォの建物だらけだ。大工はホッチキスのような電動工具で留めてゆく。カンナがけ出来ても使うところがない。

 今のままじゃ農業は勿論だめ、製造業も国内じゃ成り立たないだろう。何か特化したものなら別だけれど、それもやがては下から追いついて越されてしまうだろう。そうなるとはっきり言って今までのような普通の仕事がない。これからもっとそうなるかな。何の手も考えないとね。やがてはコンビニとファミレスとネットショップだけになるだろう。

 ある種の「ルネサンス」のような文化運動が必要じゃないかな。小さい世界、コミュニティを大事にしてその中で実際に手を使って作り出した衣食住の物を大切に使かうという生活、哲学、コンセプト。「お金」に頼らない生活、そういう価値観で計らない生活といのか、そうやって少しずつ「仕事」をもう一度自分達の手に戻す必要があるのじゃないかな。
 



 
はる 3029
 徒然に結論もありません。

「こえをきく3」
 物事を知るとか分かる理解するということは、一つ一つを区別して差別化して、自分にとってどうなのか価値があるのかないのか並び替えを行う。多くの人の営みはそうやってある種の序列化することでもあるわけだ。「私を見て」というのが全ての物事の動機だとすると、その価値体系の中心には「私」というものがいる。で、意識するかしないかは別にして、今まで生きてきた経験なり体験なり知識なりでもって一番から無限大までの序列が自然に出来ているような気がする。

 「美は発見である」という基本的なものさしで考えるならば、何もなかったところに自分の物差しを持ち込んで、これが一番だと価値付けるわけだ。芸術の流行とかブームとかいうのもまぁそういったものだろう。だから今まで見向きもされなかった作家がなにかのきっかけで一躍スターになったりする。

 絵を描くことは多分修行の一種ではないかと思っている。こころの中が不安になったり心配事が増えたりそうやって何か憂鬱な気分になるのはまだまだ修行が足りないせいだろうと考える。で、最近ちょっと考えついたのは自分を集発点にした序列をつくること自体が間違っているのではないか、いつまでも「私が、僕は・・」というものさしで計っていたのではここから抜けだせないのではないかと考えるようになってきた。

 何を言ってるのか良く分からないが続けます。

 この間ネットで数少ない本を注文して購入したときに思ったのだが、多分物事というのかこれからは何が価値が高くてこれは低いというような一元化にはならなくて多くの物事が並列に並んだようなものになるのではないかと思ったんだな。

 個というものを追求して行くと段々に他との境界が分からなくなって行く。これはオリジンということにもつながってゆく。他とは異なる個性というのではなく、誰にでも共通にあるものその源という意味の方なのだが。この考え方も面白いと思う。

  「あるがまま」という。しかし、そうあることはなかなか難しい。勝とか負けるとか、美と醜、善と悪など、人は何かと区別し価値付ける。けれど本来、物事には善も悪もなくただそこにあるだけなのだ。

 ただその理に従った「こえをきく」だけだ。


 



 
はる 3028
 はる 3028
 「こえをきく」下書き
 宇宙の話が好きでよく考える。今一番はまっている言葉は「永遠の故郷」という話。言葉そのものはロマンテックで文学的だけれど、考え方は非常に数学的な話だ。

 物事の本質を考える場合「一つ前に戻って考える」というのが常道だ。さて、それで「私は何者か」という命題を一つ戻って考えてゆくとどんどんつながってやがては宇宙の創生にまでに行き着く。

 

 面白くないので、続きはカットまた今度。
 
 



 
はる 3027
 今日は公民館で絵画教室の指導。このグループもいつのまにか5年が過ぎた。最初はゲリラ的に空いている公民館でやっていたのが最近は同じ場所が取れるようになった。この公民館もそうだけれどこういった地位のカルチャー事業は活発だと思う。もう一つの裸婦クロッキーの会場に使わせてもらっている会場も地域の公民館で時に吹奏楽や長唄や太鼓が聴こえたり、料理教室のいい匂いがしたり、お茶室もある。

 今団塊の世代が暇になってこういったカルチャースクールに怒涛のごとく押し寄せて右往左往している、「人生の放課後の部活動」といった感じかな。老後をどんなふうに暮らすのか、そこのところが一番難しいかもしれない。

 今や大学もこの世代の動向を無視できなくて大きなカルチャーセンターのように模様替えしているようだ。まぁ衣食足りた彼らが文化芸術のよき理解者になって、ひょっとすると今までかつてどこの国も経験しなかったような大きな文化運動のようなものになるかもしれない。そうなることを大いに期待したい。

 長老のSさんはもう80を超えている。(承諾を得てブログに載せました)若いときに絵をやりたくて近くの研究所でデッサンも習っていた。家の都合で一時筆を休めていたけれど、退職して自由になって今は好きな絵を描くことが嬉しくて仕方ないらしい。ほぼ一ヶ月に一度顔を見せるのだが、100号の絵を赤帽さんに運搬を頼んで持ってくる。ちょっと趣味でやりましたというのではここまで描けない。その絵に対するひたむきな態度、80を越えても次から次と表現したいことが湧き上がってくるその情熱は見ていても頭が下がります。・・会の会員とか・・賞受賞などという経歴ばかりを誇らしげに誇示する先生がたよりも何倍も輝いてみえます。自戒を込めて。

 趣味の定義は難しいのだけれど、人生を有意義に暮らす大事な要素ではないかな。ただ趣味は「暇つぶし」ではない。暇つぶしはどんなに打ち込んでもどこかむなしさが残る。そうならないために現役のころから趣味にかける時間を取ることだ。いらないものを人様にあげても喜ばれない。大事な自分の身を切るから、活きた時間、大事な時間をさくから趣味に血が通う。



 
はる 3026
 「あそびをせんと」というタイトルのメルールマガジンを月一回配信している。これももう随分古くて最初のメルマガのバックナンバーは取ってありませんね。初めの頃は不定期に何か書いていたような気もしますが途中から面倒になってトップページの画像更新のお知らせだけになっていました。で途中から月一回のブログのまとめみたいなものを「雑感・・」として配信するようになりました。雑感は今回で157ですから結構長く続いています。ちなみに第一回は2002年の10/26です。

 まぁ他に個展の案内とかそんなもので、ブログを毎回ご覧になっている方には特に目新しいものはありませんから、読者もそう増えませんがね。たまにしかここに立ち寄らない人には月一回のブログをまとめて読むには便利かもしれませんね。大したコラムでもないけれど・・。

 あぁそれから今回二人ほどメールアドレスが変わって戻ってきました。(shimizuさん、yumiさん)もし続いて読まれるなら新たに申告してください。
 ここです。メルマガ「あそびをせんと」
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