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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3041
 覚書
 いままでのことを少しまとめてみた。

 名前を付ける    名前を付けない
 意識化する     無意識、潜在意識
 分ける       分けない
 分類する      分類しない
 秩序だてる     無秩序、混沌
 意味つける     無意味
 価値つける     等価
 直列        並列
 アナログ      バーチャル
 ミクロ       マクロ
 ファースト     スロー
 特殊        普遍
 唯一        沢山
 
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4.jpg
ANAVENTURA
 ネットで見つけた面白い落書き。壁の剥落からイメージした顔。同じようなことを考えている人がいて嬉しい。

 もう少し作品が見れます。ここをクリック。

はる 3039
 般若心経3
 デシャンを持ち出すまでも無く「価値の変換」というのが芸事の一つのあり方だとは思って来た。「価値の変換」というのをもっと簡単に言えば「意味つける」ということであり、「意識する」ということであり、もっと簡単に言えば「名前を付ける」ということのように思う。くだけているので微妙なニュアンスは違うかもしれない。

 茶の湯の千利休がやったことも、骨董の青山二郎などが言っていたこともこういった部類になるかな。

 けれどよくよく考えるとAのものをBと言い換えても、結局また新しいCのものが出てきて、Bの天下は一時の物に過ぎなくなってしまう。「価値の変換」などというものは小手先のことで本質的に新しいことではないのではないかな。

 で今やられていることは「意味つける」ことを止めてしまう。反対にAもBもCも同じであるとする、すべて並列に等価値になれば、もともとあっても無くてもいいということになる。

 無意味であること、意味つけることをやめること、びっくりさせてその場で終わってしまうこと、そんなことを一生懸命やっているように思えて仕方が無い。

 ところで般若心経に戻って「「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」

 繰り返しになるけれど、人類は有史以来とにかく物事を細かく分けて「名前を付ける」ということをやってきたわけだ。科学とか学問とか哲学でも芸術でも同じで、物事を理解するということはそういうことだったんだな。

 生命の設計図であるところの遺伝子なども細かく分けられてほぼその解明が終わったと言われている。それを可能にしたのはコンピュータで、もしPCがなければこんな繁雑な作業は出来なかっただろう。そしてネットがお互いのPCを繋げて新たな世界を構築した。

 ところが面白いことにより細かく、小さく小さく分ければ分けるほど一つ一つは無意味になってゆく。AもBもCほとんど区別のつかないものになってゆく。そして無限大になれば宇宙的な混沌になるような気がするな。
 



 
はる 3038
「般若心経2」
 価値というものは相対的なもので全ては並列に並んでいるものだよ、どちらも同じように価値があるということは、どれも価値がないともいえるし、価値という人の範疇を超えているということなんだな。

 もっと言えば「私が、ぼくは」という判断基準(ものさし)はいずれ意味の無いことだといっている気がする。いいたいことは、いいも悪いも、便利も不便も、速いも遅いも、役に立つも、無用も、綺麗も汚いも、すべて同じであるということかな。

 これは全く凄い発想だ。人類は有史以来自分たちにとって有益かどうか、ということで序列を作ってきたわけだ。人に役立ては益虫になるし、役立たなくなれば害虫となる。そして膨大な農薬を注いでその役に立たないものを駆除してきたわけだ。その結果色んな免疫系の弊害が起きる。一方が無くなってしまえばそれをカバーするために異常繁殖したり、ついには絶滅したりする。そういったようにバランスがとられているものだ。

 自分たちの都合で序列を作ってきてその最高に効率を極めたコンピュータが実はその序列を無視する機械だったというのは、アンチテーゼとして凄く面白い。

 「私が、僕は」とやりつくして極めていったら、結局私も貴方もない境界のない世界にたどり着いたということだ。

 少し話は戻るけれど、「オリジン」の話のところで、全ての人、もの、ことの源をたどってゆくと、結局は全ての人に共通するといった普遍と言う言葉にたどり着いた。誰にでもどこにでもあるということは、結局どこにもないのと同じなんだよと。

 



はる 3037
 「ギャァテー ギャァテー ハラギャァテー」のお題目は田舎の爺さんが毎朝唱えていたので何となく耳に残っていた。意味など皆目わからないけれど、言葉の音が面白かったのだと思う。

 ある小説を読んでいたら般若心経についてこんな風に説明されていた。

 「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」と書かれていた。

 これは非常に分かりやすい説明で、あぁなるほどと思って般若心経で検索したらやたらとたくさんヒットしたのだけれど、どれもこれも難しくて途中で放り投げた。ありがたいお題目として人の心に残るにはこのくらい分かりやすく書く必要があるだろう。

 この文章のどこに反応したのかと言えば上手く説明できないかもしれないがやってみる。

「全ては並列に存在する」というところだな。この間の「恐竜の尻尾」の話覚えています?要するに今までの物事の価値というものは「重要である」「価値がある」順番で一番から無限大まで並んでいたわけだな。ところがパソコンの時代になって、人の思惑など関係なく一つは一つとしてカウントされるようになったわけだ。

 いいも悪いも、綺麗も汚いも、楽も苦も、老い死も、人の思惑など関係なく同じステージにあって、どれも同じだけ起きる可能性があるということだな。くだけた言い方をすれば、いいことだけあるのではなく必ず同じだけ悪いこともある。違うなぁそういうことではない。

 こうなんと言うのかな、現世、今の世、人生と言うのは人と区別する、序列をつけるということで成り立っていたところがある。例えば私にとってこれは役に立つのか、便利か、効率がいいか、人類にとって役に立つ発明かどうか、有用な物かどうかで価値が決まって行く。当然有用なものが大切にされ、いらない物は無用な物として捨てられるか、無視される。

 ところが般若心経がいっていることは、喉が乾いているものにはただの一杯の水がとてつもなく価値のあるもので、どんな高級な飲み物にもかえがたいものだよ。価値というものは相対的なもので全ては並列に並んでいるものだよ、どちらも同じように価値があるし、また価値も無いということなんだな。

 もっと言えば「私が、ぼくは」という判断基準(ものさし)はいずれ意味の無いことだといっている気がする。いいたいことは、いいも悪いも、便利も不便も、速いも遅いも、役に立つも、無用も、綺麗も汚いも、すべて同じであるということかな。

 
 



 
 徒然に・・
 考えてみれば「私を見て」というのは何も人間だけではないな。花が競うように美しい色彩で人目をひくのは、虫達に来てもらって受粉するためだ。虫達がコロコロを儚げな鳴き声をあげるのは異性を求める求愛の声だな。個体の維持とその延長上に自らのDNAを残すこと、それがあらゆる生命の基本的な使命だな。

 一度途絶えた種はもう一度復活することはない。色々な生命のバリエーションが存在するのは、どんな気候の変化や地球規模の異変が起こったとしてもそれに耐ええるパターンを残しておくという巧妙に考えられた自然の知恵だ。

 無機的な世界でも結局同じようなことが起きている。星の誕生と成長そして死をみていると、生命ある有機体と全く同じようなことがおきているんだなということに気付く。ただ有機的な生命体の反応はビビッドで反応が早いという特徴があるな。宇宙の時間を短縮して眺めているようなものだ。だから多分滅んでしまうのも速いのだと思う。

 これだけの生命のバリエーションがあるということは、実はある真実を画しているように思う。一番恐れていることは何もかも無くなってしまうことだな。



 
はる 3035
 今日はいい天気だったので、午前中は布団を干した。最近は夜になると少し冷えるようになってきたので、しまってあった毛布を出す。昔は干す場所がなくて屋根の上に直接干したりしていた。今はそのためにテラスを作ったので非常に便利になった。夏場はテラスで食事などと洒落てみたけれど、結局一度か二度やって運ぶのが面倒で止めてしまった。今はもっぱら布団干し場専用になっている。

 午後から美術館に知り合いの個展を観に出かける。行楽のシーズンの連休なので駐車場も一杯だった。なかなか人気のある場所ではある。4時ごろ小さなグループ展の搬出に県立文化ホールに行く。これがなかなか面倒な行事でね。県が仕切っている展覧会だけれど、あまり意味がない。広報されていないので、誰も知らないだろうし、行く人もない。役人さんが「文化行事をやっていますよ」というだけの消化行事だな。大体「文化」と名のつく行事は飾り物が多い。お題目は立派だけれど内容はお粗末だ。省略するわけにも行かないから仕方なしにやっている。やめてもいいと思う。

 半年振りに散発に出かける。髪が薄くなったな。こればかりはどうしようもない。さびしい事実。

 
dm

甲府展DM
 
 甲府展のDMできました。希望があればメール下さい。地元のかたは11月に入りましたら郵送します。お待ちください。

はる 3034

「こえをきく5」       

人の一生は「私を見て」というのから始まる。多分人が生きる動機の根本にあるのは多くの場合これではないだろうか。

 絵を描くことは修行の一種ではないかと思っているのだが、こころの中が不安になったり、心配事が増えたり、こうやって何か憂鬱な気分になるのはまだまだ修行が足りないのだろうと考えている。で、最近ちょっと考えついたのは、いつまでも他人の目を意識した「私が、僕は・・」というものさしで計っていたのでは、ここから抜けだせないのではないかということだ。

私のモチーフである、祈る人も思索する人も旅芸人も修行僧も漂泊者も山師や祝人も全て私の分身だ。取りつくろうつもりはない。恥も外聞もなく出し惜しみせず晒すこと、その時々の精一杯の私をすべて出してしまう。出し尽くせば、やがて見えてくるものもあるのではないだろうか。

見えないものを観る、聞こえないものを聴く、その時々のこころの「こえをきく」ことが私の仕事のように思う。

 
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