画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 3082
個展が終わってからも結構忙しくて、まだ片付けがすんでいない。いつもはこのまま東京の個展になだれ込んでゆくのだが、今年は年内はこれでお仕舞いになる。
毎年、銀座で個展をはじめて20年以上になる。最初、銀座ワコービルが分からなくて人に聞いたりしたのだから相当なものだ。そんなおのぼりさんでも何回か出かけるとやがてはなれるものだ。今では東京で一番地図がわかっているのは銀座界隈で、はっきり言えばそれ以外はまるっきり分かっていない。
クリスマスの頃の銀座は何となくウキウキする。デパートやお洒落なビルがデコレーションして益々綺麗になる。サンタの格好をした昔ながらのサンドイッチマンがいたり、大きなツリーのイルミネーションがきらきらしたり、街中の雑踏がその時だけは楽しげなバックミュージックになる。子供の頃にクリスマスが待ち遠しかったように、こんなオヤジになってもどこかそんな気分が残っているのが不思議だな。
話題が変わって。
教室でちょっと話題になったんだけれど、絵に額をつけるよね、何故だと思う?まぁ最近は簡単にテープを巻いてすませる人もおおいけれど、額によって作品の印象ががらりと変わったりする。
馬子にも衣装で、単に飾り物なのかということだな。私は随分と前から、これはあちらの世界とこちらの世界、あの世とこの世の境界、すなわち結界だと思って来たんだな。
天地創造のように限られた空間ではあるけれど、作家が思いのまま世界を構築するわけで、他からの影響を極力排除したい。そのためには何らかの意識された境界が必要なわけで、地鎮祭の時に笹を四方に立てて綱を張るように、どこでも好きなところに「わが世界」の穴をうがつわけだ。よほど強固な結界でなければ自分の意志とは裏腹に他の俗な世界がひたひたと押し寄せて来て、ああしろこうしろとかしましい。
個展なんかでもそうなんだけれど、会場内というのはある種日常の空間と異質な空間になるわけだ。会場に一歩足を踏み入れたらそこは作家の意識された特殊な世界に入り込むわけだな。俗な世界と隔絶するためにも何かしらの境界が必要なわけで、絵の場合でいうならそれが額ということになる。
今回ほとんどの額をボックス型の標本箱のようなシンプルなモノにした。デコラティブな古色感のある額も好きなんだけれど、あえてそういった装飾を廃した形にした。
それは絵そのものをストレートに観てもらいたいということも大きいのだけれど、私の場合、絵のサイドも作品になるような気がしてきたからだ。今までの作品を入れ込むタイプの額だと物理的に端っこを何ミリか取られてきゅうくつになる。
そもそも、ルオーのように額も一緒に描きたいと思っている。だからこのタイプの額がまぁ今のところ気に入っている。
個展が終わってからも結構忙しくて、まだ片付けがすんでいない。いつもはこのまま東京の個展になだれ込んでゆくのだが、今年は年内はこれでお仕舞いになる。
毎年、銀座で個展をはじめて20年以上になる。最初、銀座ワコービルが分からなくて人に聞いたりしたのだから相当なものだ。そんなおのぼりさんでも何回か出かけるとやがてはなれるものだ。今では東京で一番地図がわかっているのは銀座界隈で、はっきり言えばそれ以外はまるっきり分かっていない。
クリスマスの頃の銀座は何となくウキウキする。デパートやお洒落なビルがデコレーションして益々綺麗になる。サンタの格好をした昔ながらのサンドイッチマンがいたり、大きなツリーのイルミネーションがきらきらしたり、街中の雑踏がその時だけは楽しげなバックミュージックになる。子供の頃にクリスマスが待ち遠しかったように、こんなオヤジになってもどこかそんな気分が残っているのが不思議だな。
話題が変わって。
教室でちょっと話題になったんだけれど、絵に額をつけるよね、何故だと思う?まぁ最近は簡単にテープを巻いてすませる人もおおいけれど、額によって作品の印象ががらりと変わったりする。
馬子にも衣装で、単に飾り物なのかということだな。私は随分と前から、これはあちらの世界とこちらの世界、あの世とこの世の境界、すなわち結界だと思って来たんだな。
天地創造のように限られた空間ではあるけれど、作家が思いのまま世界を構築するわけで、他からの影響を極力排除したい。そのためには何らかの意識された境界が必要なわけで、地鎮祭の時に笹を四方に立てて綱を張るように、どこでも好きなところに「わが世界」の穴をうがつわけだ。よほど強固な結界でなければ自分の意志とは裏腹に他の俗な世界がひたひたと押し寄せて来て、ああしろこうしろとかしましい。
個展なんかでもそうなんだけれど、会場内というのはある種日常の空間と異質な空間になるわけだ。会場に一歩足を踏み入れたらそこは作家の意識された特殊な世界に入り込むわけだな。俗な世界と隔絶するためにも何かしらの境界が必要なわけで、絵の場合でいうならそれが額ということになる。
今回ほとんどの額をボックス型の標本箱のようなシンプルなモノにした。デコラティブな古色感のある額も好きなんだけれど、あえてそういった装飾を廃した形にした。
それは絵そのものをストレートに観てもらいたいということも大きいのだけれど、私の場合、絵のサイドも作品になるような気がしてきたからだ。今までの作品を入れ込むタイプの額だと物理的に端っこを何ミリか取られてきゅうくつになる。
そもそも、ルオーのように額も一緒に描きたいと思っている。だからこのタイプの額がまぁ今のところ気に入っている。
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はる 3081
午前中は定期検診。午後は知り合いのオヤジさんのお葬式があり、車をとばしてかけつける。ついこの間は若い人の門出に使った礼服を、今日は最後のお別れに使う。
帰りにホームセンターに寄ってコンポストの容器を買う。今まで穴を掘って野菜くずなどの生ゴミはうめていたのだけれど、もう少し効率的に生ゴミの処理が出来ないかということで、コンポストを試してみることにする。上手くするとゴミ処理と堆肥ができるそうだ。そんなに上手く行くのか、少々疑心暗鬼。
今年から裏の畑を借りて本格的というのか、趣味的というのか、農園を始めた。5坪ほどの極小さい畑だけれど、今年はトマトやキュウリ、ナス、ブロッコリー、ジャガイモやにんじん、かぼちゃ。夏にはバジルやルッコラなど大いに楽しく食した。意外にけっこう収穫できるものだな。
これから冬にかけて土を作る作業をしようと思っている。堆肥を出来るだけ自家製のものにしたいのだが、今年はまだ充分に出来ていないのでホームセンターで買ってきた。
とても農作業などという規模ではないけれど、自分達が口にするものを作るというのは、何と魅力的な仕事なんだろう。出来うるならば夏場の野菜や冬の根菜類などを、多少なりとも自分の畑でまかないたい。
「小国寡民」は本当にこれからの日本の生きる指針になるかもしれないな。
午前中は定期検診。午後は知り合いのオヤジさんのお葬式があり、車をとばしてかけつける。ついこの間は若い人の門出に使った礼服を、今日は最後のお別れに使う。
帰りにホームセンターに寄ってコンポストの容器を買う。今まで穴を掘って野菜くずなどの生ゴミはうめていたのだけれど、もう少し効率的に生ゴミの処理が出来ないかということで、コンポストを試してみることにする。上手くするとゴミ処理と堆肥ができるそうだ。そんなに上手く行くのか、少々疑心暗鬼。
今年から裏の畑を借りて本格的というのか、趣味的というのか、農園を始めた。5坪ほどの極小さい畑だけれど、今年はトマトやキュウリ、ナス、ブロッコリー、ジャガイモやにんじん、かぼちゃ。夏にはバジルやルッコラなど大いに楽しく食した。意外にけっこう収穫できるものだな。
これから冬にかけて土を作る作業をしようと思っている。堆肥を出来るだけ自家製のものにしたいのだが、今年はまだ充分に出来ていないのでホームセンターで買ってきた。
とても農作業などという規模ではないけれど、自分達が口にするものを作るというのは、何と魅力的な仕事なんだろう。出来うるならば夏場の野菜や冬の根菜類などを、多少なりとも自分の畑でまかないたい。
「小国寡民」は本当にこれからの日本の生きる指針になるかもしれないな。
はる 3080
引用
「小国寡民」
小国寡民。使有什伯之器而不用、使民重死而不遠徒、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使人復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、鄰国相望、鶏犬之聲相聞、民至老死、不相往来。
小国寡民。什伯の器ありて而も用いざらしめ、民をして死を重んじて而うして遠く徒らざらしむ。舟輿ありと雖も、之に乗る所無く、甲兵ありと雖もこれを陳ぬる所無し。人をして復縄を結んで而うして之を用いしめ、其の食を甘しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しましむ。隣国相望み、鶏犬の声相聞こえて、民は老死に至るまで、相往来せず。
現代語訳
国は小さく住民は少ない(としよう)。軍隊に要する道具はあったとしても使わせないようにし、人民に命をだいじにさせ、遠くへ移住することがないようにさせるならば、船や車はあったところで、それに乗るまでもなく、甲や武器があったところで、それらを並べて見せる機会もない。もう一度、人びとが結んだ縄を(契約に)用いる(太古の)世と(同じく)し、かれらの(まずい)食物をうまいと思わせ、(そまつな)衣服を心地よく感じさせ、(せまい)すまいにおちつかせ、(素朴な)習慣(の生活)を楽しくすごすようにさせる。(そうなれば)隣の国はすぐ見えるところにあって、鶏や犬の鳴く声が聞こえるほどであっても、人民は老いて死ぬまで、(他国の人と)たがいに行き来することもないであろう。
(小川環樹:中公文庫 1997年改版 167P~168P)
「小国寡民2」
道具というのはある意味で人の機能の延長上にある。スコップは手の土を掘るという機能だし、ぺンチは握るという機能を特化したものだ。やがて車はより速く走るために考え出されたものだ。電話や携帯、pcも大体同じようなものだな。
道具が一つ開発されるとその代りにそれまでそれを生業にしていた仕事がなくなる。昔は家を建てるとなればそれは多くの職人の世話にならなければ出来なかったわけだ。家などという大きなものでなくても日常使うカップやお皿でもどこかの職人が作ったものだったわけだ。それがまぁ機械化というのかオートメーションで同じ意匠のものが捨てるほど作られるわけだ。それで多くの職人の仕事がなくなる。
結局人は、突き詰めて言えば人は仕事をなくす方向を求めてきたことになる。極端な話何もしないでロボットかそれに類する機械が全てのことをやってくれるそんなことを目指してきたのではないかとさえ思われるんだな。で、人は幸せになったか?ということだ。
今の不況というのをじっくり考えてみれば、結局仕事そのものが不足しているのじゃないかな。工業化というのは大きくいえば分業化だな。一人一人は機械の歯車でしかない。チャップリンのモダンタイムスみたいなもので、人間にとっての仕事の意味が単に賃金を稼ぐだけになってしまった。パートタイム、アルバイト、契約社員、派遣、言葉は代わっても仕事の内容は変わらない。時間の切り売りでしかない。
パソコンが出てきて今まで人力でやっていた経理や商品管理、顧客管理もできるようになった。社報やちょっとした報告や印刷は自分でできる。デジカメが普及して町のカメラやサンは必要なくなった。画集を作ったときに感じたのは情報のやり取りがメールで出来るので経費が随分とかからなくなった。これもコンピュータのおかげといえばそうだろう。これでどれだけの仕事を食っただろうか。
仕事という意味をじっくり考えてみると、結局は自分や家族の食い扶持を得る行為だな。
つづく・・
引用
「小国寡民」
小国寡民。使有什伯之器而不用、使民重死而不遠徒、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使人復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、鄰国相望、鶏犬之聲相聞、民至老死、不相往来。
小国寡民。什伯の器ありて而も用いざらしめ、民をして死を重んじて而うして遠く徒らざらしむ。舟輿ありと雖も、之に乗る所無く、甲兵ありと雖もこれを陳ぬる所無し。人をして復縄を結んで而うして之を用いしめ、其の食を甘しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しましむ。隣国相望み、鶏犬の声相聞こえて、民は老死に至るまで、相往来せず。
現代語訳
国は小さく住民は少ない(としよう)。軍隊に要する道具はあったとしても使わせないようにし、人民に命をだいじにさせ、遠くへ移住することがないようにさせるならば、船や車はあったところで、それに乗るまでもなく、甲や武器があったところで、それらを並べて見せる機会もない。もう一度、人びとが結んだ縄を(契約に)用いる(太古の)世と(同じく)し、かれらの(まずい)食物をうまいと思わせ、(そまつな)衣服を心地よく感じさせ、(せまい)すまいにおちつかせ、(素朴な)習慣(の生活)を楽しくすごすようにさせる。(そうなれば)隣の国はすぐ見えるところにあって、鶏や犬の鳴く声が聞こえるほどであっても、人民は老いて死ぬまで、(他国の人と)たがいに行き来することもないであろう。
(小川環樹:中公文庫 1997年改版 167P~168P)
「小国寡民2」
道具というのはある意味で人の機能の延長上にある。スコップは手の土を掘るという機能だし、ぺンチは握るという機能を特化したものだ。やがて車はより速く走るために考え出されたものだ。電話や携帯、pcも大体同じようなものだな。
道具が一つ開発されるとその代りにそれまでそれを生業にしていた仕事がなくなる。昔は家を建てるとなればそれは多くの職人の世話にならなければ出来なかったわけだ。家などという大きなものでなくても日常使うカップやお皿でもどこかの職人が作ったものだったわけだ。それがまぁ機械化というのかオートメーションで同じ意匠のものが捨てるほど作られるわけだ。それで多くの職人の仕事がなくなる。
結局人は、突き詰めて言えば人は仕事をなくす方向を求めてきたことになる。極端な話何もしないでロボットかそれに類する機械が全てのことをやってくれるそんなことを目指してきたのではないかとさえ思われるんだな。で、人は幸せになったか?ということだ。
今の不況というのをじっくり考えてみれば、結局仕事そのものが不足しているのじゃないかな。工業化というのは大きくいえば分業化だな。一人一人は機械の歯車でしかない。チャップリンのモダンタイムスみたいなもので、人間にとっての仕事の意味が単に賃金を稼ぐだけになってしまった。パートタイム、アルバイト、契約社員、派遣、言葉は代わっても仕事の内容は変わらない。時間の切り売りでしかない。
パソコンが出てきて今まで人力でやっていた経理や商品管理、顧客管理もできるようになった。社報やちょっとした報告や印刷は自分でできる。デジカメが普及して町のカメラやサンは必要なくなった。画集を作ったときに感じたのは情報のやり取りがメールで出来るので経費が随分とかからなくなった。これもコンピュータのおかげといえばそうだろう。これでどれだけの仕事を食っただろうか。
仕事という意味をじっくり考えてみると、結局は自分や家族の食い扶持を得る行為だな。
つづく・・
はる 3079
デフレのスパイラルに落ち込んでいるそうだ。具体的にデフレなるものがどういったものかよくは知らない。けれど例えば今まで120円でしか売っていなかった缶コーヒーが100円のところがあらわれて、やがて90円、80円という具合になってゆけば、まぁどんどんと値は下がってゆくでしょうね。120円で売られていた物は当然売れなくなるでしょう。
全てのものがそういった具合に値下がりしはじめると、掛けた労力は同じであるにもかかわらず、トータルで収入が少なくなる。でものが動かない売れないという悪循環に陥るというシナリオらしい。
ただ考えると今回の不況、物が売れないというのはもっと根本的な事が間違えている、おかしいのじゃないかな。どこがというのはうまい説明が出来ないかもしれないが、やってみる。
人はある意味欲のかたまりである。旨いものを食いたいというのも欲ならば、いい生活がしたい、お金が欲しい、etc、etc・・。そういった欲がまぁこの世の中を進歩させてきたわけだから、なまじ否定はできない。
人力でやっていた洗濯を洗濯機が代用する、スコップで掘っていた穴をパワーショベルが簡単にもっとすばやく解決してくれる。車は色んなことを可能にしてくれた。宅急便はすこぶる便利だ。その日のうちに自宅まで荷物を運んでくれる。携帯はいつでもどこでも個人と個人をつなげてくれる。パソコンのネットワークは世界をつなげた。
今までえっちらおっちら運んでいた荷物があっという間に目的地まで運んでくれる。速い安い便利がこの世の中の合言葉であったわけだ。
眠い・・・つづく
デフレのスパイラルに落ち込んでいるそうだ。具体的にデフレなるものがどういったものかよくは知らない。けれど例えば今まで120円でしか売っていなかった缶コーヒーが100円のところがあらわれて、やがて90円、80円という具合になってゆけば、まぁどんどんと値は下がってゆくでしょうね。120円で売られていた物は当然売れなくなるでしょう。
全てのものがそういった具合に値下がりしはじめると、掛けた労力は同じであるにもかかわらず、トータルで収入が少なくなる。でものが動かない売れないという悪循環に陥るというシナリオらしい。
ただ考えると今回の不況、物が売れないというのはもっと根本的な事が間違えている、おかしいのじゃないかな。どこがというのはうまい説明が出来ないかもしれないが、やってみる。
人はある意味欲のかたまりである。旨いものを食いたいというのも欲ならば、いい生活がしたい、お金が欲しい、etc、etc・・。そういった欲がまぁこの世の中を進歩させてきたわけだから、なまじ否定はできない。
人力でやっていた洗濯を洗濯機が代用する、スコップで掘っていた穴をパワーショベルが簡単にもっとすばやく解決してくれる。車は色んなことを可能にしてくれた。宅急便はすこぶる便利だ。その日のうちに自宅まで荷物を運んでくれる。携帯はいつでもどこでも個人と個人をつなげてくれる。パソコンのネットワークは世界をつなげた。
今までえっちらおっちら運んでいた荷物があっという間に目的地まで運んでくれる。速い安い便利がこの世の中の合言葉であったわけだ。
眠い・・・つづく
個展楽日
無事終了しました。昨年お休みしたということもあるのかお客様はかなり多かった。お客さんが一人もいないという時間はほとんど無かった。この場所で毎年開催するということが定着してきたのかもしれない。
写真で分かるように会場には重い木で出来た教会の家具のようなテーブルがあって、老若男女、家族連れや、カップルが三々五々訪れてお茶を飲んだりだべったりしてゆく。この画廊が好きなのはこういったゆったりとしたスペースがあることで、只単に絵だけを見に来るだけではなく、日常の生活の中で絵を見てもらうそんな雰囲気が好きなんだ。高尚な芸術鑑賞、かた苦しい教養ではなく、極普通のありきたりな、いつもの生活の中で絵を見てもらいたいと思っている。かつての教え子が結婚して子供を連れてやってくることも多く、自分達が歳を食ったのも当たり前だなと思う。そんな感傷も好きな時間だ。
どうもありがとうございました。また次回を楽しみにしていてください。
無事終了しました。昨年お休みしたということもあるのかお客様はかなり多かった。お客さんが一人もいないという時間はほとんど無かった。この場所で毎年開催するということが定着してきたのかもしれない。
写真で分かるように会場には重い木で出来た教会の家具のようなテーブルがあって、老若男女、家族連れや、カップルが三々五々訪れてお茶を飲んだりだべったりしてゆく。この画廊が好きなのはこういったゆったりとしたスペースがあることで、只単に絵だけを見に来るだけではなく、日常の生活の中で絵を見てもらうそんな雰囲気が好きなんだ。高尚な芸術鑑賞、かた苦しい教養ではなく、極普通のありきたりな、いつもの生活の中で絵を見てもらいたいと思っている。かつての教え子が結婚して子供を連れてやってくることも多く、自分達が歳を食ったのも当たり前だなと思う。そんな感傷も好きな時間だ。
どうもありがとうございました。また次回を楽しみにしていてください。
個展7日目
明日5:00で終了です。まだご覧になっていない方は、是非観てください。きっと後悔はさせません。
これまでの感想を書いてもらったブログ
* 「猫の後姿」
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10391264113.html#cbox
*「なほみの視点」
http://ameblo.jp/jewel-stained/entry-10393433777.html#cbox
*「白ねこ広告社のつれづれぐさ」
http://ameblo.jp/chiaki-senpai/entry-10395410660.html#cbox
http://ameblo.jp/chiaki-senpai/entry-10396076107.html#cbox
明日5:00で終了です。まだご覧になっていない方は、是非観てください。きっと後悔はさせません。
これまでの感想を書いてもらったブログ
* 「猫の後姿」
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10391264113.html#cbox
*「なほみの視点」
http://ameblo.jp/jewel-stained/entry-10393433777.html#cbox
*「白ねこ広告社のつれづれぐさ」
http://ameblo.jp/chiaki-senpai/entry-10395410660.html#cbox
http://ameblo.jp/chiaki-senpai/entry-10396076107.html#cbox
はる 3075
個展5日目
今回も勿論今までと同じように作品を描いてきた。変わったことはほとんどないように感じていたのだけれど、二年ぶりに見る人にはかなりの変化を感じたようだ。多く指摘されるのは色が鮮やかになったということ。使っている色は変わらないわけだから、何かしらどこかが変わったのだろう。
今やっているスタイルというのは、誰かの真似をしているのではなく、何となく自分が長い作画生活の中であみ出したというのか、行き着いた方法で、どこかに標準的な手法があるわけではない。それゆえに何年か前までは、ほとんど探り描きのような、泥縄方式、出たとこ勝負的な試行錯誤を余儀なくされていたように思う。
やっては壊して、壊しては又絵の具を塗りこんで、布を張り込む、そんな繰り返しで自然に厚くなって行ったのだが、そういった手法ゆえどこか野暮ったい、さえない発色もあったように思う。 まぁよく言えばそういった試行錯誤が作家の軌跡を感じさせて好ましく感じられたのかもしれないな。
そういった意味では今のスタイルは完成に近づいてきたのかもしれないな。手順ということもないのだけれど、こうすればこうなるという予測がかなり立つようになってきたということだろうか。
無理に壊す必要はないと思うのだけれど、何か新しいものが欲しくなって来た。それが何なのかわからないけれどね。
さて、明日は午後から教え子の結婚式に夫婦して招待されています。個展中なので私は出来るだけ早く帰ってくるつもりでいますが、予測はつきません。御用の方は日曜日は確実にいます。よろしくお願いします。では。
個展5日目
今回も勿論今までと同じように作品を描いてきた。変わったことはほとんどないように感じていたのだけれど、二年ぶりに見る人にはかなりの変化を感じたようだ。多く指摘されるのは色が鮮やかになったということ。使っている色は変わらないわけだから、何かしらどこかが変わったのだろう。
今やっているスタイルというのは、誰かの真似をしているのではなく、何となく自分が長い作画生活の中であみ出したというのか、行き着いた方法で、どこかに標準的な手法があるわけではない。それゆえに何年か前までは、ほとんど探り描きのような、泥縄方式、出たとこ勝負的な試行錯誤を余儀なくされていたように思う。
やっては壊して、壊しては又絵の具を塗りこんで、布を張り込む、そんな繰り返しで自然に厚くなって行ったのだが、そういった手法ゆえどこか野暮ったい、さえない発色もあったように思う。 まぁよく言えばそういった試行錯誤が作家の軌跡を感じさせて好ましく感じられたのかもしれないな。
そういった意味では今のスタイルは完成に近づいてきたのかもしれないな。手順ということもないのだけれど、こうすればこうなるという予測がかなり立つようになってきたということだろうか。
無理に壊す必要はないと思うのだけれど、何か新しいものが欲しくなって来た。それが何なのかわからないけれどね。
さて、明日は午後から教え子の結婚式に夫婦して招待されています。個展中なので私は出来るだけ早く帰ってくるつもりでいますが、予測はつきません。御用の方は日曜日は確実にいます。よろしくお願いします。では。
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