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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3203
 そうだった。「どうなりたいか?」

 何かのキャッチコピーを読んでいたら「よく使う言葉の集積がその人を表している」とか書かれていた。う~ん。なるほどなぁ。さしずめ「どうなりたいか」というのはよく使うフレーズだな。

 二十歳やそこらの人間ではない、還暦ももう目の前に迫っている準老人がまだ「どうなりたいか」などと考えているわけだ。これはもう、一生私は「どうなりたいか?」と考え続けて棺おけに入るわけだな。まぁそれもまた私というわけだ。面白い。

 私のペンネームのように「遊び」というのが一つのキーワードのように思うな。この場合の「あそび」にはクリエイトという意味が含まれている。

 「絵描き」であるというのもある意味「遊び」の一つである気がする。遊びも真剣勝負でなければ面白くない。「命がけ」なんだけれど、かといってすがりたくもない。さらっと気前よく命を預けたい。ここのところのニュアンスが難しいところだ。野暮は一番避けたいところ。
 
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荘子の話
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-323.htm
から
-------------------------------------
無用の用
  
 およそ有用――役に立つということは大事なことに違いない。
だが、浅はかな人間の知恵で推し量られる有用が、本当の有用であるか
どうか。もう一つ上の、“道”(タオ)の立場から見れば、凡俗の輩の
有用などは取るに足らぬこざかしさ、いや愚かさに過ぎず、無用とされ
るものの方に却って大用――真の用があるとも言えるようではないか、
と例の皮肉哲学者荘子は、無用の用を強調するのである。
************************
 
 戦後でしょうか、アメリカ型の生活習慣が入ってきて、全てが能率主義、市場主義、便利が全て、つまり「有用の用」が全てに優先するようになった。まぁその結果が今の我々の生活を作ってきたわけだから、全てを否定することはできないのだけれどね。ただ、ちょっと待てよ、というのがここに来ての反省だと思うんだな。

 無駄というのか、遊びというのか、無用というのか、今までに必要ないと思われていたものの中にこそ大事な事が隠れていたんだよと教えている。

 これは今流行の「スローライフ」につながるような話だけれど、例えば物の売り方一つをとってみても、スーパーマーケットのようなものが普通になって、お客さんは勝手に商品を取ってレジで清算するという形が当たり前のようになってしまった。人件費などの効率を考えれば、このほうが当然いいわけで、何だか自由に買い物ができてスマートな感じがする。昔のような市場という雑踏は非常に非効率的で前近代的なかんじがするけれど、あの雑踏と喧騒のなかにこそ人間的というのか、人と人のコミュニケーションがあって、突き詰めるとそこにこそ「人間の幸せ」というのがありそうな気がする。

 例えば、教育にしても主要教科と付属教科?があるけれど、実際に役に立たないと言われている付属教科にこそ生きることの『楽しみ」が含まれている。

 時間がないので今日はここまで。今から東京です。今日は午前様でしょう。



 
 町内の花見会。途中で雨に降られたけれど、まぁまぁ皆さん楽しんでいました。後は恒例のカラオケ大会です。

 明日は東京、また遅くなります。では。



 
はる 3200
 糸井さんのコラムより
http://www.1101.com/darling_column/2010-02-08.html
・・略・・
(おそらく、「どういうじぶんでありたいのか?」
という自問自答のなかでは、
理想のじぶんと、そうはいかない見苦しいじぶんとが、
しょっちゅう対話しているにちがいない。
でも、その問答、その対話が、
その人をつくってるんだというのは、すごいことだ。)



 
 近所の公園の桜並木、今年も桜が咲きました。この日曜日は町内会の花見です。昔は考えられませんでしたが、最近は近所のお年寄りと花見をしたり、町内の公民館の文化祭にもごく普通に参加するのです。ほとんどの人が私が絵描きだと知りません。小学生の工作や、ばぁさんの編み物や、じぃさんの俳句の短冊などと一緒に展示されています。これでどうだ!というのは恥ずかしい。妙に違和感なく並んでいますね、それでいいと思っています。



 
はる 3197
 (絵描きになる方法?)質問に答えて
・・・略・・・
 で次は絵描きになる方法ですが、これはなかなか難しいですね。コンクールで上位の賞を取ってデビューという方法もありますが、長くはつづきませんね。一発屋でおわることが多いです。

 これはお客さんをつかんで行かねばなりません。自分の好きな絵だけを描いてゆくというわけには行きません。無論自分の絵を描いてゆくわけですがね。

 地道に個展を開催してゆくというのが、遠回りですが一番の方法だと思います。

 絵描きになるには団体展の会員である必要はないのです。「作家として生きる」という姿勢です。

 絵描きは個展がすべてです。グループ展や団体展は団体戦ですね、確かに楽しくて有意義な仲間なんですが、基本的に絵は個人的なものです。自分の世界、を個展という方法で世の中にアピールする。

 それで、出来るだけたくさんの自分のファン?シンパ?を増やしてゆく。コレクターは真剣に見ています。一年目は眺めるだけ、二年目は声をかけてきます、三年目でやっと小さな一枚を買ってくれるかもしれません。もちろん見てもらえるだけでもありがたい話です。100人に一人買ってくれればいいのです。押し付けは絶対にだめですね。

 画商はもっと真剣です。それが商売だからです。汚い言葉ですが「儲けにならない作家」には話は回ってきません。ですが、多くの画商の中には自分と一緒に成長してゆこうと言ってくれる画商さんが、そうですねそれも100人にひとりくらいですかね、必ずいます。そう信じてやってきました。

 あせってはいけません。自分と意見の合う、パートナーを真剣に探してみてください。これは誰かの紹介とかというのではだめなんです。自分で見つけるひつようがあります。

 まじめに真剣に個展を続けていれば必ず誰かが声をかけてくれます。最初は地元から経費を少なく始めるのが良いでしょう。そうやって10年ぐらいつづけてみてください。必ずいい結果が得られるでしょう。

 ここからは禅問答のようですが、絵だけを売ろうと思うと、媚びた見苦しい絵になります。底が見えて、げんなりしてしまいます。そんな絵はそこら辺にいたるところに転がっています。目的はそこにはありません。大事なことは、本人が楽しみながら、悠々と淡々と生きているか?ということですね。そうすれば必ず共感して見ていてくれる人がいるように思います。



 
はる 3194
 少し面白い話を聞いた。ある小さな会社があった。社長は40台の女性。くわしいことは知らないけれど、最初はオーガニック系の石鹸を扱っていたようだ。

 面白いのは会社の形態というのが、その構成員である社員の提案でどんどん変化して行くことだ。会社は社員のものであるという発想だ。新しい共産主義みたいだな。

 例えば会社には食事する食堂がなかった。昼食に会社の外に出るより社内で済ませたほうが経済的だ。ということで60過ぎたおば様たちに社員食堂をやってみないかとすすめた。これが意外にやる気になって、それではオーガニック系の食材で体にも頭にもいい献立を考えようということで、やがては自社のビル近くに畑まで作るようになった。

 それがやがてうわさになって、そこの社員食堂は社員だけではなく、近所のそういったことに(食育に関心のある)人たちが食事を希望するようになって、やがてそんなお店に発展した。で、もっとということで会社自体を田舎に引っ越してしまった。

 これは多くの話の一つでしかない。今までの会社、仕事のイメージは就活して、何とかそこまではがんばって、いい会社、安定した仕事にありつけるよう、腰を低くして媚売って愛想良くして、雇ってもらうというイメージだな。

 ところが、そういった労働というのはある種、必要不可欠な苦役でしかない。嫌々だけれど仕方がないというやつ。人というのは最初は生き生きと仕事をする。慣れるまではまじめにノウハウを学ぶ。ところが一旦慣れてしまうと、今度は以下にサボるかということにその能力をつかってしまうのだな。

 まぁ融通のきく小さな会社だからこんなことが出来るのだろうけれど、まず会社ありきという発想ではなく、まず人ありきという発想で、その人力(ひとちから)で何かをやってゆく、探してゆく、というのは面白いなぁと久しぶりに背筋に電気が走った。

 上手く行くことばかではないけれど、成り行きで会社そのものがつぶれるかもしれないが、こんな会社ならみんな骨惜しみをせず、面白がってがんばるのではないか。仕事の原点のような気がする。 

 
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