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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 いつものブログを読んでいたら「余命半年といわれても今の生活をしていますか」という風なことが書かれていた。皆さんはどうなんでしょう。

 この話を聞いたときに思い出したのが、前にも書いたけれど高校三年生の時のS君の話、皆でワイワイと半年しか生きられないとどうする?などとたわいもない話をしていた。多分受験勉強に嫌気が差してそんなくだらない話しでごまかしていたのだろうけれど、おちゃらけて銀行強盗してお金をたんまりと懐にしてしたいことをやる・・何もしないで寝て暮らす・・などなど大したことは出てこなかった。

 秀才のs君はまじめな顔して「私はどうあっても今の受験勉強していると思います」とこたえた。みんなはその答えの正当性にがくぜんとして自分を恥じたね。そうなんだな、将来がどうであれ今やれることを淡々とやる。それがすべてなんだ。
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 昨日は久しぶりのクロッキーだった。二ヶ月個展とぶつかったりして参加できなかった。最初に絵を描く仲間と申し合わせてクロッキーの会を立ち上げた。こんな田舎だと地元のモデルというのが難しい。すぐに身元がバレてよからぬうわさになってしまうだろう。

 幸い東京が近いこともあって交通費込みでお願いすると、けっこうそういった需要もあるらしくて、モデルさんたちにとっても出張の手当てがちょっとついて、それに小旅行の気分も味わえて人気があるらしい。今まで断られたことはない。もう15年ぐらい続いているのではないだろうか。純粋に営利ではないこういった研究会は珍しいのではないだろうかね。

 設立会員は私とあと一人になってしまったが、二人とも本画のほうは全く違う絵を描いているけれど、お互い基本的に描くことが好きなんだと思う。なんだろうなぁ、結局少しでも上手くなりたいと気持ちがあるから続いているのではないだろうか。これでいいやと思えないからやり続けるのでしょうね。

 クロッキーの面白さは線だと思うな。慣れないとどうしてもずるずると同じような緊張感のない線を引いてしまう。一本の線にはいつも言うのだけれど、この線でなければならない、ここでなければならない場所というのがある。まぁ描いている時にはほとんど何も考えていないのだけれど、醍醐味は一発で決まった時だな。これがなかなか気持ちがいいものだ。

 日本人は欧米人に比べて線の意識が高いと思う。それは今なら漫画とかアニメとかが世界規模で認められていることで証明される。昔は浮世絵などの版画だったけれどね。まぁそれの延長上にあるとは思うのだけれどね。

 それと少し話は違うのだけれど面白いことを聞いた。どこだったか忘れたのだけれど。日本語の表示が漢字交じりの表意文字だから絵と文字が同じ脳の分野で認識されるから、欧米人の表音文字と違って左右の分野が混乱せずにスムースに物語と溶け込むというようなことを言っていた。こじ付けかも知れないがなかなか説得力がある。今は3Dが主流になりつつあるけれど、我々日本人には目新しさはあるけれど、特に必要ないのじゃないかなどと思うな。

 線と立体の話はまた続きを書こう。



 
 このところまじめに朝は6:30頃起きて河原を少し速めの歩調で歩くことから始まる。自由業だから何もそんなに規則正しく生活しなくてもいいだろうと思われるかもしれませんが、淡々と毎日同じように生活するというのがけっこう大事なんですね。不規則な生活はまず精神が壊れる、次に体が壊れる。

 若い頃はごたぶんにもれず朝寝坊の宵っ張り、いつも明け方まで起きてごそごそと絵を描いたり、何か書きもをしたり、本を読んだりしていた。しんと静まった夜の感覚は段々に研ぎ澄まされて、集中しているように思われる。仕事が上手く行っているように勘違いする。ある種自分に酔ってしまうところがあるのかもしれないなぁ。まぁそんな時も必要なんだろうけれど、若いときはそんな生活が楽しくもあったのだけれどね。

 段々に体がおかしくなるって来る。昼間は電話があったり、宅急便がきたり、来客があったりして、ゆっくりは寝ていられない。ボーっとまるで昼行灯。いつもやたらと眠いんだな。特に午前中は起こされるとそんなことで不機嫌になる。体がいつも眠いもんだからぽーっと微熱がある感じ。どことなく憂鬱。夜になると元気になる。何だか変だよな。

 そんなことがあって体を壊してから、きっちり生活を変えた。実はこの方が仕事がはかどることに気がついた。夜の情熱、夜書いた手紙は出さない方がいい。昼間読むとやたらと恥ずかしい。というのは集中しすぎて「うぬぼれ」「自己中」がてんこ盛り。自分に酔っては人を感動させることはできない。酔っ払いの役者はただの酔っ払い、しらふの役者が酔っ払いの役を演じるので表現となる。



 
 朝の散歩の時の写真。昨日は集中豪雨で川の様子はどうかなと心配しましたが、まぁ一極集中だったので、全体的には大したことはなかったようだ。よく見ると下の右端の方に鯉が泳いでいるのが見える。



 
  油絵のようですが、そうではなくて車のフロンドグラス越しに今日の夕立をシャメしたものです。面白い効果がでるものです。

 知り合いの「猫の後ろ姿」さんが、二三日まえの記事にさらにコメントを書いてくれました。励みになります、ありがとうございました。

http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10623784796.html

 ちなみに「甲府の街の芸術祭」ではこんなこともします。
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はる 3342
 午後からはゴロゴロと雷が鳴って今にも夕立が来そうなのに今日もまた一粒の雨も降らなかった。一雨くれば随分とすごしやすくなるのにね。

 村上春樹の1Q84を読みすすめている。二度目なんだけれど一度目はけっこう読みとばしていたのか、忘れている部分が多い。けっこう厚い本なので文庫本のようにポケットにねじ込んでと言うわけにはいかない。

 色んな話がさくそうして同時進行してゆくのだけれど、おもしろいなぁと思ったのは、主人公が物語のなかで書く話がいつの間にか現実になってなってゆくってところ。まぁそんな話ならよくあるかもしれないけれど、例えば「空気さなぎ」などという今までこの世の中に存在しなかったものを登場させる。でその形態をその話の中で克明に描くわけだ。最初それは空想のお話として語られる、だからどんな風にでも描くことが出来るわけだ。主人公のイメージ、幻想だかね。ところが、それが実際に目の前に現れてくるのだけれど、その形態は自分が描いたそのままの状態で出てくる。

 自分が描いた物語の中に自分が入り込んで行く。その物語の中を生きることになる。まぁ実際にはそんなことはありえないことなんだけれど、実はそういった感覚と言うのは特別不思議なことではないのではないかとおもうのだな。

 例えば宇宙を想像するとする。延々とどこまでも続く無限の世界だ。宇宙の果てまで行ったとする。実際は
きりはないのだけれどね。ところがその宇宙の果てを想像しているのは自分の頭の中であるわけだな。とすると宇宙は自分の頭の中にあるということになる。以前話したフラクタクルの理論だな、世界は実はそうやって出来ていると思う。

 で、もう一つ思ったのは、こうやって絵を描いてゆく方法、行き先を決めないで絵の中に自分の描きたいものを探してゆく、発見してゆく、どんどん自分の奥底まで降りてゆくそんな作業は、この話と実によく似ている。最初はなんでもない、今まで観てきたようなありきたりな物だったり物語だったりする。それが面白くないのでどんどん壊してゆくと、今まで見たことも聞いたこともないような物や物語を発見することがある。絵を描いているのは自分なんだけれど、実は絵の中に自分を見つけているんだ。ややこしいけれどどこか似ている。
 



 
  今日も暑かったですね。でもまぁ夜になると虫が鳴いているので、そろそろ夏も終わりでしょうか。上の写真はいつもお世話になっている車の整備工場の近くの川です。絵に描いたような「夏の小川」ではありませんか。

 



 
はる 3340
 いつも夏のこの時期は、一年分の大半の小品を描く。もちろん各個展前にも少し新作を追加するのだけれど、多くても20点ぐらいでそんなには多くない。今年も60点から70点ぐらいの作品を同時に描いている。

 やり方は一定の決まりはないのだけれど、春の団体展の作品が終わった頃から地塗りを始める。私の場合この地塗りがけっこう重要な要素で、単に作画のための下塗りではない。布をコラージュしたり絵の具をたらしたり、壁土を塗り込んだりして何となくデコボコした独特の肌合いが自然に出てくるのを待つ。この時にはまだ何を描くのかはまるっきり考えていない。

 胎児は母親のお腹の中で生物発生から進化の様子を順に踏まえてゆくそうだが、こういった作品もある意味で私の分身であるから、私の今までの描画のスタイルの変遷を順番にみせているように思う。一つの作品は突然そこに現れてきたのではなく、私の今までの経験や体験が何らかの形で沈み込んでいるのだ。だから真似をしても同じものにはならないし、百人の作家がいれば百通りの方法があって当然だ。それを考えるのが作家の仕事だとも思うな。

 ある程度地塗りがいい感じに仕上がってくると、そろそろその中にあるイメージを見つけに仕事になる。けれど大体において最初のイメージはありきたりでつまらない場合が多い。無理やりいじめて何とかアイデァを出したような作為的なものは、ほとんど二順目あたりで消えしまう。そうやって何度もなんども繰り返して自分の頭の中を覗き込むような仕事をしていると、突然ピカリとひらめく時がある。そうなってくればしめたもので、自分では絶対描けない様な作品が描けたりするのだな。まぁ時々だけれどね。

 今回もまだまだ二転三転するのだろうと予測している。
 


 
 はる 3339
 村上春樹の「1Q84」の3を読んでしまってから、もう一度1から読み直している。私は本にあまり興味がないので、一度読んでしまったものは二度読むということがない。ほとんど読みっぱなしで次から次とやたらと乱読といえばかっこいいけれど、ほとんど無節操に漫画から文庫の駄本まで、読んでしまったらリサイクルショップに売ってしまう。趣味と言うのか暇つぶしというのかそういった読み方で、とうてい読書家とはいえない。

 村上春樹のロングインタビューを読んでいる。同郷でだいたい同じ世代で、リアルタイムで彼の言っていることはよく分かる。はっきり言って小説よりはわかりやすい。大体の作品は読んでいるにも関わらず、いままで割りと縁遠い存在で好きな作家ではなかった。まぁ今も本当には分かっていないのかもしれないけれどね・・。

 今回のインタビューで気になった言葉は「井戸を掘る」というフレーズだ。降りていって深く掘り下げることで、今まで気付かなかったことに気付くようになる、というようなことを言っていた。これは私の今のテーマともしっかりと関係している話で面白いなぁと思った。

 小学校の頃の話で、自分は極普通の中産階級の子供で、特別いじめられもしなかったし、傷つきもせずに育ってきたと思ってきた。だから何の問題意識もなく30近くなるまで小説を書こうとは思わなかった・・、という風に考えていたらしい。ところが小説を書き始めて、どんどん自分の中を下ってゆくと今までなんでもなかった子供時代が違った目で、感覚で捉えるようになった。

 親とか学校とか、まぁ色々な意味で既成の体制があるわけだ。子供は生まれて最初はそこそこ幸せに暮らしてゆくのだけれど、ある意味でどこかで規制がかかる。教育とか、しつけとか、規則とか、常識とか、世間体とかなんがか分からない、世の中の常識みたいなものに暗黙のうちに傷つけられているんだな。なんとなくわかる。

 気がつかなければそれはそれで幸せな一生なんだけれど、こう表現という仕事をしてゆくとどうしてもそういったところまで降りてゆかなければ、書けなかったり、描けなかったり、するわけだ。ユング心理学者の河合隼雄との接点もそんなところにあるようだ。こわいけれど、なるほどと同感するところ多し。
 
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