画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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私の奥さんがプロデュースした一日だけの食堂を開いた。やまごというのは甲府の町中にある五味醤油店の屋号。そこの味噌を使ったオリジナル創作料理ということで、30名限定の予約制とさせてもらった。当日はほとんどが知り合いっやら、卒業生やらの同窓会のような雰囲気で、楽しい夜会となった。本人はくたびれ果ててものやらないとは言っていますが、声がかかるとまたやってしまうのでしょう。一緒になってワイワイと手伝ってもらったりしたのもほとんどが教え子だったりで、こうやって一緒に遊ぶのは楽しいことです。
「 猫の後姿」さんがコメントを書いてくれました。ありがとうございました。
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10647145911.html
「 猫の後姿」さんがコメントを書いてくれました。ありがとうございました。
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10647145911.html
複数の方から「今度はバーで展覧会をやるのですか?」と聞かれた。確かにBarは「バー」と読みます。我々の感覚でいいますと、「バー」というのはスナックと違ってお酒を専門に出す酒場、スナックは軽い食事も出て女給さんもいるお店という感じ。いずれにしろカラオケなどがある酒場を指すように思う。
ところが紛らわしいことにイタリア語よみだと「バール」になる。バールはどちらかと言えば喫茶店に近い感じでコーヒーを飲んだり、軽い食事をとったりするお店で感覚的にはカフェと同じかな。で今回のBar Slowというのは「バールスロー」でありまして、酒場ではありません。あしからず。
「猫の後姿」さんがブログで少し前の記事を紹介してくれました。
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10644759384.html
「こうふのまちの芸術祭」のブログ
http://ameblo.jp/5323ko/
「Bar Slow」ブログ 絵があるということ
http://bar-slow.com/blog/2010/09/post-35.html
ところが紛らわしいことにイタリア語よみだと「バール」になる。バールはどちらかと言えば喫茶店に近い感じでコーヒーを飲んだり、軽い食事をとったりするお店で感覚的にはカフェと同じかな。で今回のBar Slowというのは「バールスロー」でありまして、酒場ではありません。あしからず。
「猫の後姿」さんがブログで少し前の記事を紹介してくれました。
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10644759384.html
「こうふのまちの芸術祭」のブログ
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「Bar Slow」ブログ 絵があるということ
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はる 3363
「遠い記憶」・・下書き1
胎児は母親のお腹の中で生物発生から進化の様子を順に繰り返してゆくそうだが、私の分身である作品も、今までの描画のスタイルの変遷を順番にみせているように思う。一つの作品は突然そこに現れてきたのではなく、私の今までの経験や体験が何らかの形で沈み込んでいる。だから真似をしても同じものにはならないし、百人の作家がいれば百通りの方法があって当然だ。それを考えるのが作家の仕事だとも思う。
ある程度地塗りがいい感じに仕上がってくると、そろそろその中にあるイメージを見つける仕事になる。けれどほとんどの場合、最初のイメージはありきたりでつまらない。無理やりいじめて何とかアイデァを出したような作為的なものは、さっさと二巡目あたりで消えしまう。そうやって何度もなんども繰り返して自分の心の中を覗き込むような仕事をしていると、突然何かがひらめく時がある。そうなってくればしめたもので、自分では絶対描けない様な作品が描けたりする。
何やら霞がかかったように、ぼやーっとしていたものが、段々にクリアーになって、どこかで見たような人が、何かをやっているなぁと見ていると、それは自分だったというようなことになる。ちょっと不気味な話だけれど、その人の心の中にもう一人の自分がいて、その中にまた自分がいるといったことかな。結局どこまでいってもその人から抜け出すことはない。
ある作家が「人との違いが大事といわれるけれど、私は人と共通するものを描きたい」というふうなことを書いていた。私の仕事は様々な事柄の底の方にある「遠い記憶」を探し出して、誰でもが共感できるものに形を変える仕事ではないかと思っている。それが出来たかどうか、今年もまたそんな作品を並べます。
「遠い記憶」・・下書き1
胎児は母親のお腹の中で生物発生から進化の様子を順に繰り返してゆくそうだが、私の分身である作品も、今までの描画のスタイルの変遷を順番にみせているように思う。一つの作品は突然そこに現れてきたのではなく、私の今までの経験や体験が何らかの形で沈み込んでいる。だから真似をしても同じものにはならないし、百人の作家がいれば百通りの方法があって当然だ。それを考えるのが作家の仕事だとも思う。
ある程度地塗りがいい感じに仕上がってくると、そろそろその中にあるイメージを見つける仕事になる。けれどほとんどの場合、最初のイメージはありきたりでつまらない。無理やりいじめて何とかアイデァを出したような作為的なものは、さっさと二巡目あたりで消えしまう。そうやって何度もなんども繰り返して自分の心の中を覗き込むような仕事をしていると、突然何かがひらめく時がある。そうなってくればしめたもので、自分では絶対描けない様な作品が描けたりする。
何やら霞がかかったように、ぼやーっとしていたものが、段々にクリアーになって、どこかで見たような人が、何かをやっているなぁと見ていると、それは自分だったというようなことになる。ちょっと不気味な話だけれど、その人の心の中にもう一人の自分がいて、その中にまた自分がいるといったことかな。結局どこまでいってもその人から抜け出すことはない。
ある作家が「人との違いが大事といわれるけれど、私は人と共通するものを描きたい」というふうなことを書いていた。私の仕事は様々な事柄の底の方にある「遠い記憶」を探し出して、誰でもが共感できるものに形を変える仕事ではないかと思っている。それが出来たかどうか、今年もまたそんな作品を並べます。
こうふのまちの芸術祭」で展覧会をしますといいながら、詳しい告知を忘れてしまいました。と言うわけでここで宣伝します。DMも何もありません。ここだけの告知です。よかったら下の文章をコピーして貼り付けてください。
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