画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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画商が作家を育てることはない、よくてコレクターとの共犯だそうだ。「画商の仕事」という項目で検索して私のブログに来た人がいた。それを逆に伝わって上の文章にめぐり合った。画商は作家の作品を商売としてコレクターに売る。いまだかつて作家を育てようなどと傲慢な考えを持ったことはない。出てくる作家は放っておいても勝手に出てくるもので、育てられるものではない。なるほどなぁ、そうかもしれない。
昨日の話にもつながるのだけれど、例えば種を蒔いてきれいな花を育てようとすると、一生懸命水をやったり肥料を与えたりする。確かにそうすれば一時は満開の惚れ惚れするような大輪の花をつけるかもしれない。けれどもそれがその場に合わない、どうしても間違った場だったら、いつしか静かに消えていってしまうだろう。いつの間にか自生している草木に取って代わられてしまうのだ。その自生している雑草こそがその場にあった正しい植生だからだ。
ダーウィンではないけれど、生き残るには生き残るだけの理由がある。強いから残るのではない、弱いからきえるのではない、無作為だから残るのだ。
昨日の話にもつながるのだけれど、例えば種を蒔いてきれいな花を育てようとすると、一生懸命水をやったり肥料を与えたりする。確かにそうすれば一時は満開の惚れ惚れするような大輪の花をつけるかもしれない。けれどもそれがその場に合わない、どうしても間違った場だったら、いつしか静かに消えていってしまうだろう。いつの間にか自生している草木に取って代わられてしまうのだ。その自生している雑草こそがその場にあった正しい植生だからだ。
ダーウィンではないけれど、生き残るには生き残るだけの理由がある。強いから残るのではない、弱いからきえるのではない、無作為だから残るのだ。
「時の忘れ物」
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/52427401.html
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・・・私自身は、美術業界に入ったときから、確信犯的に「画家を育てるなんておこがましい。凄い画家はほっといても自分から出てくる」と広言して、周囲の若い人から顰蹙をかっていました。私がそう言っていたのは、ヨーロッパならいざ知らず今の日本で、画商が画家を育てるなんて実態を無視した絵空事(でなければ建前)と思っていたからです。
今から思うと若気の至りですが、数多く存在する画廊の多くが、育てるどころか、「客からではなく、画家から金を集金する」貸画廊であり、画家にしても何年も先まで予約が入っている有名貸画廊(当時はそういうのがありました)を大枚払って借りて個展をすることがステップ・アップになると勘違いしているような状況はおかしくはないか・・・・・と義憤を感じていたのですね。
もちろん、「貸し」ではなく、「企画画廊」としてやっている画商さんも多数います。でもその多くは(私も含めて)画家のつくった作品を商売として売り買いしているのであって、決して「芸術家を育てる仕事」をしているのではありません。
ある作家の才能を見抜き、その価値を信じることにおいては、身銭を切って買うコレクターに、所詮私たち画商がかなうはずがないと思っています。私たちの仕事は顧客あっての商売で、もし画家を育てる人がいるとすればそれはコレクターであり、画商ではない。そういう素晴らしいコレクターに出会い、せめて共犯関係(主犯はコレクターです)になることが画商としての私の切なる願望です。
因みに日本の近現代美術史を飾る画家たちの自伝などを読んでみると(少なくとも私が読んだ限り)、梅原龍三郎でも、安井曽太郎でも、棟方志功でも、恩地孝四郎でも、大沢昌助でも、瑛九でも、オノサト・トシノブでも、菅井汲でも、駒井哲郎でも、「画商に育ててもらった」などと書いている画家は一人もいませんでした。むしろ池田満寿夫さんなどは恨みつらみの方が多い。・・・・・
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http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/52427401.html
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・・・私自身は、美術業界に入ったときから、確信犯的に「画家を育てるなんておこがましい。凄い画家はほっといても自分から出てくる」と広言して、周囲の若い人から顰蹙をかっていました。私がそう言っていたのは、ヨーロッパならいざ知らず今の日本で、画商が画家を育てるなんて実態を無視した絵空事(でなければ建前)と思っていたからです。
今から思うと若気の至りですが、数多く存在する画廊の多くが、育てるどころか、「客からではなく、画家から金を集金する」貸画廊であり、画家にしても何年も先まで予約が入っている有名貸画廊(当時はそういうのがありました)を大枚払って借りて個展をすることがステップ・アップになると勘違いしているような状況はおかしくはないか・・・・・と義憤を感じていたのですね。
もちろん、「貸し」ではなく、「企画画廊」としてやっている画商さんも多数います。でもその多くは(私も含めて)画家のつくった作品を商売として売り買いしているのであって、決して「芸術家を育てる仕事」をしているのではありません。
ある作家の才能を見抜き、その価値を信じることにおいては、身銭を切って買うコレクターに、所詮私たち画商がかなうはずがないと思っています。私たちの仕事は顧客あっての商売で、もし画家を育てる人がいるとすればそれはコレクターであり、画商ではない。そういう素晴らしいコレクターに出会い、せめて共犯関係(主犯はコレクターです)になることが画商としての私の切なる願望です。
因みに日本の近現代美術史を飾る画家たちの自伝などを読んでみると(少なくとも私が読んだ限り)、梅原龍三郎でも、安井曽太郎でも、棟方志功でも、恩地孝四郎でも、大沢昌助でも、瑛九でも、オノサト・トシノブでも、菅井汲でも、駒井哲郎でも、「画商に育ててもらった」などと書いている画家は一人もいませんでした。むしろ池田満寿夫さんなどは恨みつらみの方が多い。・・・・・
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今朝最後のシャワーを浴びた。何度かつっかりながらお勤めを果たし終えた。お酒と水と塩でお清めをしてご苦労さんでしたとお礼を言った。25年だからね。このぐらいして当然かな。まぁこのボイラーがどれだけもつのか分かりませんが、とりあえず新しくきれいになったことは確かだな。
仕事はどんな形でめぐってくるか分からない。話があったときにすぐにでも対応できる状態にしておくことが大事だ。ほとんどの場合、無名の新人はそんなに余裕のある絶好の時と場は与えてはくれない。個展まで半年あればいい方だ、三ヶ月ということもある。話があったときに断ってしまえば二度目の話はないと思った方がいい。不安はある。ストックしてある絵で間に合うのか、展覧会が出来たとして、果たして首尾よく行くのかどうか。少なからぬ人が関係して仕事が進んでいるわけだから、自分ひとりが恥をかけばすむことではない。
基本的に色んな場所で展覧会をやって、旅芸人よろしく生きてゆくというような生き方をしたいと考えている。これから人生の後半に入ってゆく。どこまでそれに近づけるのだろうか。楽しみにはしている。
仕事はどんな形でめぐってくるか分からない。話があったときにすぐにでも対応できる状態にしておくことが大事だ。ほとんどの場合、無名の新人はそんなに余裕のある絶好の時と場は与えてはくれない。個展まで半年あればいい方だ、三ヶ月ということもある。話があったときに断ってしまえば二度目の話はないと思った方がいい。不安はある。ストックしてある絵で間に合うのか、展覧会が出来たとして、果たして首尾よく行くのかどうか。少なからぬ人が関係して仕事が進んでいるわけだから、自分ひとりが恥をかけばすむことではない。
基本的に色んな場所で展覧会をやって、旅芸人よろしく生きてゆくというような生き方をしたいと考えている。これから人生の後半に入ってゆく。どこまでそれに近づけるのだろうか。楽しみにはしている。
路地に咲く花は美しい。着飾った花屋さんの店先に並んでいる花々もそれなりに好きなんですが、こうやって何気なく路地に咲いている花のほうが自然でいいなぁと思う。雑草などと人間の勝手な解釈で呼ばれるけれど、草花の方から言わせればお前たちの方が邪魔者、よけい者と言われそうだ。
絵を描く場合なんかでもよく言われるのが、自然をよく観察しなさい」「よく見なさい」という事。人はいずれにしろ自分の身の丈でしか理解できないから、初学者は「なるほど、見た通りに忠実に描けばいいのだな」と思うわけだ。写真のように、見たとおり、見えたとおりに描いた絵は、街角でやっている似顔絵のようで、すこぶる気持ちの悪いものだ。何が気持ち悪いのか、これはどう説明すればいいのだろうか。
物理的に言えば人間の目は複眼で二重写しに見えている画像を頭の中で一つにしている。写真は単眼で一つの同じ画像を複眼で見るからという風に説明できるのだけれど、私の言いたいことはそんなことではない。
「自然から学べ」というのはもちろん見えたそのものの形や色と言うこともあるのだけれど、もっとも大事なのは「何故そこにそれがそんな風にあるのか」ということだと思う。もっと簡単に言えば「因果応報」
物事には必ず原因があってその結果がある。例えばここに昼顔が咲いている。誰かが意識的に植えたのでなければどこからか種が飛んできて、そこにとどまって発芽したわけだ。色んな場所がある。どこでもいいわけだけれど、あえてここを選んでこの昼顔はここに咲いている。だから彼、彼女にとってこの場所が自分にとって一番適した場だったわけだ。
例えばその昼顔がランダムに3つの花をつけていたとする。で、その花のつき方にも何らかの理が隠されているんだな。そんなに難しいことではなくて、例えば太陽の光が一番受けやすいようにとか、虫たちが発見しやすいようにとか、風があたらないようにとか、色々・・。
「自然から学べ」「よく見ろ」というのはそういった道理を見つけろ、探せと言うことで、形や色をそっくり写し取れと言うことではないということだ。
人は「作為的な動物」と言い換えてもいいかもしれない。いつもいつも「わたし」というものを中心に意識している。これはまぁ人が人になった時から切り離せないことなんだけれど、どうしてもそこから離れられない。いやこれは表裏一体のもので元々分けることができないものだろうな。なかなか難しい修行ではある。
絵を描く場合なんかでもよく言われるのが、自然をよく観察しなさい」「よく見なさい」という事。人はいずれにしろ自分の身の丈でしか理解できないから、初学者は「なるほど、見た通りに忠実に描けばいいのだな」と思うわけだ。写真のように、見たとおり、見えたとおりに描いた絵は、街角でやっている似顔絵のようで、すこぶる気持ちの悪いものだ。何が気持ち悪いのか、これはどう説明すればいいのだろうか。
物理的に言えば人間の目は複眼で二重写しに見えている画像を頭の中で一つにしている。写真は単眼で一つの同じ画像を複眼で見るからという風に説明できるのだけれど、私の言いたいことはそんなことではない。
「自然から学べ」というのはもちろん見えたそのものの形や色と言うこともあるのだけれど、もっとも大事なのは「何故そこにそれがそんな風にあるのか」ということだと思う。もっと簡単に言えば「因果応報」
物事には必ず原因があってその結果がある。例えばここに昼顔が咲いている。誰かが意識的に植えたのでなければどこからか種が飛んできて、そこにとどまって発芽したわけだ。色んな場所がある。どこでもいいわけだけれど、あえてここを選んでこの昼顔はここに咲いている。だから彼、彼女にとってこの場所が自分にとって一番適した場だったわけだ。
例えばその昼顔がランダムに3つの花をつけていたとする。で、その花のつき方にも何らかの理が隠されているんだな。そんなに難しいことではなくて、例えば太陽の光が一番受けやすいようにとか、虫たちが発見しやすいようにとか、風があたらないようにとか、色々・・。
「自然から学べ」「よく見ろ」というのはそういった道理を見つけろ、探せと言うことで、形や色をそっくり写し取れと言うことではないということだ。
人は「作為的な動物」と言い換えてもいいかもしれない。いつもいつも「わたし」というものを中心に意識している。これはまぁ人が人になった時から切り離せないことなんだけれど、どうしてもそこから離れられない。いやこれは表裏一体のもので元々分けることができないものだろうな。なかなか難しい修行ではある。
すっかり涼しくなった。
死んだと思っていたボイラーが今日スイッチを入れたら生きていた。新しいボイラーが入るまで二三日あるので、毎日銭湯通いも面倒だなぁと思っていたので助かる。いよいよ最後のお勤めなのかね。それにしても修理に来たお兄さんはあまり丁寧に見ずに25年も経ったのだからと簡単に修理不能と判断したようだ。多分私もそうするとは思うのだけれど、なぜか納得出来なかったのだな。
前々から今度買い換える時は灯油のボイラーではなく少し割高になるけれどガスにしようと話し合っていた。というのは段々に年をとってくると給油するのがつらくなってくるからだ。今はまだ問題ないけれど、後10年経つとわからないからね。それにカミサンじゃできないから。
そんな経緯もあってそろそろだめになる頃だとはふんでいた。だから今回トラブルがあってすぐに手配したわけだけれど、まぁもう確かに潮時ではあったんだけれどね。基本的に自分で分解して掃除してそれでもだめなら納得したんだろうけれど、どうも経過年数だけで判断されたようでそこのところが納得のいかないところだ。
手配してしまったからこれはもう換えるけれどね。これほど丈夫な道具は二度とめぐり合わないだろうな。車なんかもそうだけれど、いいものにめぐり合うとほとんどメンテしなくて最後まで壊れないものがある。新車に乗ったことがないので偉そうなことは言えないのだけれど、まぁ比較的に道具類は大事にする方だと思う。修理できるものは出来るだけ修理して使い切る。これが何だろう、大げさに言えば全てに共通する生き方みたいなものだ。
死んだと思っていたボイラーが今日スイッチを入れたら生きていた。新しいボイラーが入るまで二三日あるので、毎日銭湯通いも面倒だなぁと思っていたので助かる。いよいよ最後のお勤めなのかね。それにしても修理に来たお兄さんはあまり丁寧に見ずに25年も経ったのだからと簡単に修理不能と判断したようだ。多分私もそうするとは思うのだけれど、なぜか納得出来なかったのだな。
前々から今度買い換える時は灯油のボイラーではなく少し割高になるけれどガスにしようと話し合っていた。というのは段々に年をとってくると給油するのがつらくなってくるからだ。今はまだ問題ないけれど、後10年経つとわからないからね。それにカミサンじゃできないから。
そんな経緯もあってそろそろだめになる頃だとはふんでいた。だから今回トラブルがあってすぐに手配したわけだけれど、まぁもう確かに潮時ではあったんだけれどね。基本的に自分で分解して掃除してそれでもだめなら納得したんだろうけれど、どうも経過年数だけで判断されたようでそこのところが納得のいかないところだ。
手配してしまったからこれはもう換えるけれどね。これほど丈夫な道具は二度とめぐり合わないだろうな。車なんかもそうだけれど、いいものにめぐり合うとほとんどメンテしなくて最後まで壊れないものがある。新車に乗ったことがないので偉そうなことは言えないのだけれど、まぁ比較的に道具類は大事にする方だと思う。修理できるものは出来るだけ修理して使い切る。これが何だろう、大げさに言えば全てに共通する生き方みたいなものだ。
ボイラーが壊れてしまったので銭湯に行く。最近の銭湯の情報を知らなかったので、行ってみて驚いた。まぁお値段も高かったけれど、中の様子がもう昔の銭湯のイメージとは全く違ったものだった。湯船ももちろん色々なパターンがあるのだが、湯上りのの休憩室がファミレスのようになっていて、みんなそこで食事もしている。メシ食って風呂入って帰って寝るだけ。若者も多いし、新しい形態スペースだと思った。
ボイラーは驚くなかれ86年制でなんと24年間掃除も全くせずに一度も故障せず働き続けた優れものでした。修理を頼んだのですが、予想通り修理不能と太鼓判を押されてしまった。あわよくば分解掃除だけで済まそうと考えていたのですが、今回の故障はそんなものではない根本的な機能がおかしくなっているということでした。
まだ私の中では納得できない部分があるのですが、まぁ24年ほぼ毎日使って故障もせず動き続けていたのですから、もう充分でしょう。ということで痛い出費ですが、仕方ない、買い換えることにした。
ボイラーは驚くなかれ86年制でなんと24年間掃除も全くせずに一度も故障せず働き続けた優れものでした。修理を頼んだのですが、予想通り修理不能と太鼓判を押されてしまった。あわよくば分解掃除だけで済まそうと考えていたのですが、今回の故障はそんなものではない根本的な機能がおかしくなっているということでした。
まだ私の中では納得できない部分があるのですが、まぁ24年ほぼ毎日使って故障もせず動き続けていたのですから、もう充分でしょう。ということで痛い出費ですが、仕方ない、買い換えることにした。
以下三点の写真は今開催中の「こうふのまちの芸術祭」の様子。
一番下から「旧中尾内科医院」で医者のフリをするタノタイガ氏。実際に白衣を着てそれ風なことを述べますが、すべて嘘っぱちです。尿瓶に入れた冷たいお茶をふるまってくれました。すごく胡散臭いところが面白い。
下から二番目は旧スーパーオギノの跡地で行われている現代アートの展示及びパホーマンス。インスタレーション(設置芸術)がほとんどですが、美術館や画廊でやるよりもこういった今にも壊れそうな、風前のともし火のようなだだっ広い空きビルなんかの方が、荒廃したどうにもやるせない感じがして臨場感があっていいように感じた。中ではそんな感じとは裏腹にきゃしゃな若い女の子が、ヘッドホンで音楽を聴きながら『野菜』と書かれたポップのしたで巨大な野菜の絵を描いていた。陽の当たらない廃墟で新鮮そうな野菜の絵を描く若い女の子。これもまた悲しいですが、何か示唆するところはあるように思いました。
一番上は福嶋孝一氏の竹のオブジェ。銀座通りはもうすでに死んでしまった商店街です。昼間歩いてみてもとてもこれが甲府の中心街の銀座商店街とは思えません。そんな中に、われ関せずどっどと天を突き刺すように竹が伸びているのは非常に気持ちがよかった。今回の出展の中でも出色の作品ではないでしょうか。相当な人物とみた。
一番下から「旧中尾内科医院」で医者のフリをするタノタイガ氏。実際に白衣を着てそれ風なことを述べますが、すべて嘘っぱちです。尿瓶に入れた冷たいお茶をふるまってくれました。すごく胡散臭いところが面白い。
下から二番目は旧スーパーオギノの跡地で行われている現代アートの展示及びパホーマンス。インスタレーション(設置芸術)がほとんどですが、美術館や画廊でやるよりもこういった今にも壊れそうな、風前のともし火のようなだだっ広い空きビルなんかの方が、荒廃したどうにもやるせない感じがして臨場感があっていいように感じた。中ではそんな感じとは裏腹にきゃしゃな若い女の子が、ヘッドホンで音楽を聴きながら『野菜』と書かれたポップのしたで巨大な野菜の絵を描いていた。陽の当たらない廃墟で新鮮そうな野菜の絵を描く若い女の子。これもまた悲しいですが、何か示唆するところはあるように思いました。
一番上は福嶋孝一氏の竹のオブジェ。銀座通りはもうすでに死んでしまった商店街です。昼間歩いてみてもとてもこれが甲府の中心街の銀座商店街とは思えません。そんな中に、われ関せずどっどと天を突き刺すように竹が伸びているのは非常に気持ちがよかった。今回の出展の中でも出色の作品ではないでしょうか。相当な人物とみた。
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