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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 松本へいったのは、決して遊びではありません。車の運転は得意ではありません。最近どうも三半規管の耳石が不安定のようで長いこと車の運転などをすると、少し酔ったような感じになる。これも加齢によるものかどうかわかりませんがね。

 下のロベール・クートラスの画像を追加しました。いや、私は全く知りませんでしたが、それなりに知る人ぞ知るのマイナーでも有名な作家だったようですね。その作家の姿勢というのか生き方がおもしろい。古い昔のタロットカードのようでありながら、どこか素朴な護符というのかお守りとか小さなイコンのようで、そんなところがまたいいなぁ。それにしっかり何々教といった宗教臭さや、説教じみたところもなく、純粋に自分だけのために描いたものという感じがする。

 大きな絵でなくても、小さく手のひらにのるような作品でも充分魅力がある。是非本物を見てみた。
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 面白い作家ですね。へたくそなような上手いような不思議な画風です。ロベール・クートラス、ネットで検索して情報を載せます。
勝手引用
http://www41.tok2.com/home/indy/fc/hitorigoto/2004/2/17.html
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・・・・・これは、経済的に余裕がなかったがゆえの知恵で選ばれた支持体で、画材用の厚紙ではなく、それこそ有り合わせの厚紙で、ティッシュペーパーの箱や「なんでも屋が配った客寄せカード」なども使ったようです。

そうした厚紙に壁面用の塗料を地塗りし、その上に油絵具で描いていくことになります。

彼は自分の作品を「わが闇(Mesnuits)」といい、中世以来おなじみの骸骨やマリオネット、道化師、植物、動物、昆虫、文字、あるいは、ちょっとばかりエロティックな図柄をモチーフにして、それらを無限に表現していきます。

雑誌で紹介されている幾枚かを見渡してみても、描かれたものは多用で、顔の付いたお日様のようなものが縦に三つ並んでいるかと思えば、幕の間から覗くウサギの絵があり、また、裸の女性がお尻をこっちに向けているものもあります。かと思えば、色面だけで構成されたものもあります。いずれもが単純な線や色面で描かれています。

このクートラスという画家は、1930年、パリのモンパルナスに生まれたそうですから、いわゆる生粋のパリジャン(Parisien フランス語:パリ生まれの男性。パリ市民。パリっ子=広辞苑)ですが、両親の仕事の関係からか、10代の半ばでフランス中央部へ移り住むことになります。

彼は早くから芸術を志し、朝の5時から昼の1時までは工場で働きながら、その後、午後はその土地で制作を続けていた彫刻家の下で木彫を学び、夜は夜で地元の美術学校へも通う、というハードなスケジュールの中で仕事と勉強を両立させていたようです。

その後、1953年、23歳になったクートラスはリヨン(Lyon:フランス南東部、ローヌ・ソーヌ両川合流点にある都市。ローマ時代に起こる。大聖堂・大司教館・大学などがある。繊維・機械などの工業が発達。人口41万5千〔1990年時点〕=広辞苑)の美術学校へ入学しています。

美術学校で専門的な知識と技術を習得した彼は、「最後の印象派」と呼ばれる画風を掲げて画廊で個展を開いたり、1958年には上京したパリで賞を得て大手画廊と契約を結ぶなど、画家としてまずまず順調に歩み出します。

しかし、望んでもなかなか結べない画廊との契約を数年で解消してしまいます。その理由は本人にしかわかりませんが、想像するに、いわゆる“売り絵”を制作しなければならない現実と、真に自分が描きたい作品との間には決定的なズレがあり、それが短期間の内に、自分の中で修復不可能なほど大きなものになってしまったのではないか、と勝手に想像してみました。

加えて、彼が本来持つ、孤独な性格が大きく影響していそうです。

コラムの3ページ目には、仕事場に座る彼の姿を撮しとめた写真があります。そこに写る彼の表情は、決して愉快そうには見えません。

その制作環境が何とも風変わりです。何と、ベッドの上の狭い空間が彼にとってのアトリエであったといいます。

彼は、パリのアパートの一室に暮らし、そこで寝起きし、ベッドの上で小さな小さな作品を6000枚も描き続けたのです。

そうやって制作された作品は、長い年月を経たかのように、所々に虫食いのような跡や自然にがれ落ちたような箇所が見受けられますが、それはクートラスが床にこすりつけるなどして意識してつけたものだそうです。

昨日書いた熊谷守一にしろ今日のクートラスにしろ、世間一般の常識からいえば、理に合わない生き方をしたといえます。彼らには、それ相応の腕前があり、それを器用に活かせば人並み以上の生活ができたはずです。であるのに、敢えてそうした道を自ら断っています。

その“代償”として、豊かな生活は送れず、極貧の中で生き続けなければならなくなります。しかし、それは彼らにとっては代償なのではなく、それこそが信ずるに足る道だったのでしょう。

画家にとって代償があるとしたら、それは、むしろ豊かで何不自由ない生活の方にこそあるといえましょう。

人間というものは情けないもので、何不自由ない生活の中からは、真に意味のある作品は生み出せないのです。そして、苦しみこそが画家に名作を生み出させるのだとしたら、画家というのはまことに因果いんがな職業といわざるを得ません。・・・・
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(返信)
 
 表現というのはどうにも不思議なもので、食うに困らない、切羽詰ったものではないところからは人を心の底から揺さぶるようなものは出てこないような気がします。

 もう後がない、やむにやまれぬ、土壇場のところから、本当のものが出てくるのでしょう。多分いまの日本じゃ難しいでしょうね。

 心の中のもっともっと奥深く掘り下げれば、本来の何も変らない人間として、動物として、一つの命として、ぎりぎりに生きて希求する何かにぶち当たるとは思うのですが、なかなかそこまで自分を追い込むことは出来ませんね。

 残された時間も段々少なくなってきましたが、少しでも近づきたいとは思っています。まぁ無理でしょうけど・・。



 
 何とか解析でみると、中国の方が時々このHPを訪れてくれているようだ。まぁとても広い国だから我々のような狭い島国に生きている国民感情はなかなか理解できないだろうなと推測する。

 良くも悪くも我々の気持ちの中に国境=海岸線というイメージがあって、おおいなるものも含めて優れたものは全て海の向こうからやってきた。古い時代は中国のとんでもない大きな文物に尊敬して憧れて真似をしてどうやら言葉さえも器用に真似て作ってしまった。まぁ足元にも及ばない大いなる大国であったわけだ。

 文明開化以降我々の感覚がどちらかと言えば西欧化してしまったからかもしれないが、どうも最近の彼の国はおかしいと思うのだ。おかしいというのか、集団としてのかの国は姿の見えない巨大な力のようで、個人の権利や他国のことなど知ったことではない!という無言の圧力があって、どうも恐ろしいのだな。それがまぁ集団としての国の力ということかもしれないけれどね。

 反対に、我らの国はまことに情けない集団で、「おい、こら!」と恫喝されたら、「はいはい、すみませんでした」といとも簡単に尻尾を振ってしまう輩の集まりでね。国としての方針も気概もないのか!といいたい。なら、最初っからかっこつけないで、へいこらしてろよな。かっこ悪すぎだ。
2011年度の個展情報を更新しました。来年は今まで以上に忙しくなりそうです。アラカンですから本来ならそろそろ引退の花道を考えながら仕事を進めてゆくのでしょうが、我々のような芸(極)道人はこれからがそろそろ本番です。どうなることか、私自身とても楽しみにしています。よろしくお付き合いのほどを!



 
 こういった風景を見て懐かしい気持ちになるのは私だけだろうか。よくわからないのだけれど、自分の中にある原風景みたいなものかもしれない。舗装されていない砂利道が延々と遠くまで続いていて、はるか向こうに穏やかな山が見える。途中に崩れかけたような小屋がある。

 毎日何かしらの写真を撮るとということになると、自ずからその人の趣味と志向が出る。そんなところからも何か読み取れるかもしれないな。最初はそれなりにかまえて撮るのだけれど、そのうちにかまっていられなくなって地が出てくる。

 保護されたものというのは弱いなと思う。何でもそうだけれど、例えば文化事業などでも補助金が出たとすると、それを目当てに色んな人が右往左往する。本来そこには存在しないようなものまで無理やり登場したりして場を盛り上げる。それでその場は大喝采で大成功のように見えるわけだ。ところが根付いていない行事は時とともに跡形もなく消えてしまう。

 芸能や文化のようなものは保護するとたちまちのうちにその魅力は消えてしまうように思う。本来そういった芸事というものは大衆と共にあって、大衆に支持されて始めて存在できるようなものではないのかな。芸術の名の下にどうもそこらあたりが勘違いしているように思う。反対に大衆に受けたからといってそれが何年も先に芸事として残っているかどうかはわからない。

 奨学金とか補助金、助成金などというものは百害あって一利なしと思った方がいい。「本当に凄い奴は放っておいても出てくる」ということかな。



 
 油彩画を描いていた時は一応H型という据え置き型の大きなイーゼルがアトリエを占領していた。漫画などで画家と言えばそういったイーゼルに絵を立てかけて、絵の具を山盛りにしたパレットを持って絵を描いている姿が描かれているけれど、私の場合そうやって絵を描くことはほとんどない。

 気がつけばアトリエの床に直接座り込んで、どこにでも絵を立てかけたり寝ころがしたりしながら描き込んでいる。いつも同じ調子で同じように絵を描くこともない。やりながら考えて、上手く行かなければ水をぶっ掛けて流してしまう。一度ボンドで張り付いた布はちょとやそっとでは引き剥がせない。カンナをかけるかヤスリをかけるかペンチでもって引きちぎるしかない。その跡がまた面白い効果が出ていたりする。

 パレットなどというしゃれたものもない。いいものを使ってもアクリルの場合すぐにだめになってしまう。筆やナイフもすぐに固まって使い物にならなくなる。だから生徒の残り物で充分だ。↑の水入れは古い洗面器だし、絵の具を解く皿は使い捨てのどんぶりだ。これが非常に役に立つ。

 工場か左官屋さんかペンキ屋さんの仕事場に近いように思うな。



 
 ↑の写真は130号の途中過程。まだ何も見えてはいない。雑多なもの厚い麻布(ドンゴロス)や薄いプリント地の綿布、壁土やもちろん絵の具などが渾然と重なって一つの造形物になっている。出来るだけ無意識にほとんど夢遊病者のようにオートマチックに絵の具をたらす。

 この辺りだけを見ると戦後すぐあたりのアメリカの抽象絵画に近い。デクーニングやポロック、ジャスパージョーンズなど、フランスのデビュッフェなども好きだな。多分新しい安価な画材、塗料とかアクリル系の水性絵の具が登場してきたおかげで、大きな画面にふんだんに使うことができたということも関係しているのではないだろうかね。今までの油絵の具でしっくりゆっくり描いてゆくという絵画とはどこか違う。

 油彩絵画の伝統と言うことであれば西欧には連綿とした歴史があるわけで、建国二百年ぐらいの歴史しかない彼の国はスタート時点で完全に負けているわけだ。最初の頃はそれでもヨーロッパの当時の巨匠を招待したりして文化的な遅れをひっしになって取り戻そうとしていた。それはそれで上手く根付いたところもあったけれどね、やっぱりアメリカ的な表現になるのは先ほども書いたけれど新しい画材とめぐり合ってからだと思う。

 私が今の画材に出会ったのは93年頃に自宅の改装をした時だ。床のフローリングを貼る時にはボンドを使ったし、外壁を塗る時は安いアクリル塗料を買ってきた。穴を埋めるにはパテを使ったし、左官屋さんのように和風の京壁も塗った。これらの経験から得たものは多い。

 最初の頃は建材やさんからセメントを着色する顔料を随分と購入してきた。これは画材店から買うよりも随分と安かった。今でもその時に買った弁柄などは使い切らずにある。ところがこういった顔料には成分が書かれていないことが多い。今まで伝統的に左官屋さんが色粉として何の疑いもなく使ってきたものだろうけれど、あらためて考えると成分表示のない顔料は怖いと思った。

 と言うことを経て、弁柄や砥粉や黄土、胡粉など明らかに成分が分かっているもの以外は画材店から購入することにした。それもあるけれど段々に使う顔料が土製のものに限られてきた。今は成分をみてアクリル絵の具と変らない物はそのままアクリルもつかう。

 材料が変る事で絵も随分と変わると思う。多分今の描き方は水性の絵の具でなければ考えつかなかっただろうし、油彩は油彩の得意とする表現方法があるしそれを否定するつもりは全くない。

 だから、これは好みの問題なんだろう。こういった色々なものが渾然と一体になったようなものが好きなんだな。幼い頃に泥遊びをした記憶だったり、糊をメリケン粉からつくって新聞紙を丸めたものにべたべた貼って人形を作ったり、紙と布を貼り合わせて自分だけのノートを作ったり、木を削ってお守りをつくったり、そんなことが遠い記憶として今の仕事に結びついているように思う。
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