画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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「吉川春水、昨日今日明日」より勝手引用
http://kikkawaharumi.blog68.fc2.com/blog-entry-959.html
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
略・・
仕事をすることに大反対した父を押し切って、仕事を続け40余年、今私は、「好きなことをやるからこそ、生活できる」と自信を持って言うことができます。もちろん好きなことは趣味にして、生活のために「仕事」を続ける人も多い、もしくはそれが大多数。ではあるけれど、「本当に好きなこと」を諦めずに続ければ、それはそれなりに「生活」できると信じています。
「できる」と私が言いきる最大の理由は、「好きなことをする=生活できない、もしくは清貧に甘んじなければならない」という呪縛にとらわれるあまり、大多数の人が好きなことで生活できるまで頑張らない。途中で諦める。
結果として、「好きなこと」を続ける人がだんだん少数になり、わき目も振らず「好き」を続けるうちに競争相手が自然といなくなり、やがて本人の技術、経験が加わり、それなりにその世界で生きていけるようになる。
略・・
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
「蔵出し」はる 3438
オリジナルについて
resonanceより勝手引用
http://resonance-1111.tumblr.com/post/1638140458#note
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ついに一人のフォロワーも得ることのなかったユニークさ」には何の価値もない。「多くのフォロワーを獲得したためにいつのまにか少しもユニークなものでなくなってしまったユニークさ」だけに価値があると私は思っている。だから、「オリジナリティ」に値札をつける習慣にどうしてもなじむことができないのである。
詩について言えば、詩人がほんとうに求めていたのは読者たちの彼の詩境に対する全面的な共感だろうと私は思う。理解されず共感されず、それゆえ模倣することもできぬような詩想を有したことでオリジナリティを確立することなど詩人は望んではいない(と思う。詩人じゃないからわからないけれど)。
詩想がひろく共感されるということは、人類の「感受性の財産目録」にそれまでになかった新しい感受性を一つ付け加えるということだと私は考えている」
詩人のコピーライトについて (内田樹の研究室)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はる 3525
日ごろ暇な時は本ばかり読んでいる。と書くと非常にカッコよく聞こえる。何のことはないここにタイトルを書くことさえはばかれるような暇つぶし本ばかりである。小難しい読むのに苦労するような本は一切読まない。だから世に言う「読書家」とはいえないねぇ。
けれど本を読むことは好きだ。どこかに出掛けるときは必ず、文庫本を持って出掛ける。なければ近くの本屋に立ち寄って何か本を買うことになる。読んだ本はまとめてすぐに古本屋に持て行く。溜まって困るからだ。
自分の人生に読書という習慣はなかった。だから読むのも非常に遅い。読書を教養として「読まなければ」という強迫観念から開放して「暇つぶし、楽しみとして読む」と考えるようになって俄然面白くなった。なくてはならない趣味になった。
最近読んだ本の中にこんなことが書かれていた。
まぁ犯罪者の話なんだけれど、その主人公とは幼馴染で小さい頃からつるんで遊んでいた。大きくなって主人公は犯罪と取り締まる役人になり、その幼馴染は反対に犯罪者になる。子供の頃はそう大きな違いはない。どちらにも同じような場面があるわけだ。それでも実際に犯罪者になってしまう者とそうでない者には、どこか決定的な違いがあるというのだな。
人というのはある時を境に決定的に悪になるわけではない。善と悪はいつも同じ分量あって、悪に染まるものはいつでも少し悪が勝っているというのだな。それを覆すのには本人の自覚が不可欠で、多大な努力を必要とする。そんなことが書かれていて気になった。
閑話休題
この間の売れないアーチストの話。売れないことことが、理解されないことが芸術の前提であってはならない。「好きなことで食べられない」ことが人々の理解をこえた高尚なことと勘違いしてはならない。
いつの時も同じくらいの賛同者と非賛同者がいる。売れるものは突然火がついたように売れるのではない。もちろんそんな人も時にはいるけれど、ブームは来た時と同じように過ぎてゆく。そんなものを相手にしてはいけない。本物はいつの時代も数は少ないかもしれないが圧倒的な支持者がいるものだ。そういった圧倒的な支持者を少しずつ増やしてゆく。それしか真っ当な方法はない。
http://kikkawaharumi.blog68.fc2.com/blog-entry-959.html
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略・・
仕事をすることに大反対した父を押し切って、仕事を続け40余年、今私は、「好きなことをやるからこそ、生活できる」と自信を持って言うことができます。もちろん好きなことは趣味にして、生活のために「仕事」を続ける人も多い、もしくはそれが大多数。ではあるけれど、「本当に好きなこと」を諦めずに続ければ、それはそれなりに「生活」できると信じています。
「できる」と私が言いきる最大の理由は、「好きなことをする=生活できない、もしくは清貧に甘んじなければならない」という呪縛にとらわれるあまり、大多数の人が好きなことで生活できるまで頑張らない。途中で諦める。
結果として、「好きなこと」を続ける人がだんだん少数になり、わき目も振らず「好き」を続けるうちに競争相手が自然といなくなり、やがて本人の技術、経験が加わり、それなりにその世界で生きていけるようになる。
略・・
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「蔵出し」はる 3438
オリジナルについて
resonanceより勝手引用
http://resonance-1111.tumblr.com/post/1638140458#note
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「ついに一人のフォロワーも得ることのなかったユニークさ」には何の価値もない。「多くのフォロワーを獲得したためにいつのまにか少しもユニークなものでなくなってしまったユニークさ」だけに価値があると私は思っている。だから、「オリジナリティ」に値札をつける習慣にどうしてもなじむことができないのである。
詩について言えば、詩人がほんとうに求めていたのは読者たちの彼の詩境に対する全面的な共感だろうと私は思う。理解されず共感されず、それゆえ模倣することもできぬような詩想を有したことでオリジナリティを確立することなど詩人は望んではいない(と思う。詩人じゃないからわからないけれど)。
詩想がひろく共感されるということは、人類の「感受性の財産目録」にそれまでになかった新しい感受性を一つ付け加えるということだと私は考えている」
詩人のコピーライトについて (内田樹の研究室)
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はる 3525
日ごろ暇な時は本ばかり読んでいる。と書くと非常にカッコよく聞こえる。何のことはないここにタイトルを書くことさえはばかれるような暇つぶし本ばかりである。小難しい読むのに苦労するような本は一切読まない。だから世に言う「読書家」とはいえないねぇ。
けれど本を読むことは好きだ。どこかに出掛けるときは必ず、文庫本を持って出掛ける。なければ近くの本屋に立ち寄って何か本を買うことになる。読んだ本はまとめてすぐに古本屋に持て行く。溜まって困るからだ。
自分の人生に読書という習慣はなかった。だから読むのも非常に遅い。読書を教養として「読まなければ」という強迫観念から開放して「暇つぶし、楽しみとして読む」と考えるようになって俄然面白くなった。なくてはならない趣味になった。
最近読んだ本の中にこんなことが書かれていた。
まぁ犯罪者の話なんだけれど、その主人公とは幼馴染で小さい頃からつるんで遊んでいた。大きくなって主人公は犯罪と取り締まる役人になり、その幼馴染は反対に犯罪者になる。子供の頃はそう大きな違いはない。どちらにも同じような場面があるわけだ。それでも実際に犯罪者になってしまう者とそうでない者には、どこか決定的な違いがあるというのだな。
人というのはある時を境に決定的に悪になるわけではない。善と悪はいつも同じ分量あって、悪に染まるものはいつでも少し悪が勝っているというのだな。それを覆すのには本人の自覚が不可欠で、多大な努力を必要とする。そんなことが書かれていて気になった。
閑話休題
この間の売れないアーチストの話。売れないことことが、理解されないことが芸術の前提であってはならない。「好きなことで食べられない」ことが人々の理解をこえた高尚なことと勘違いしてはならない。
いつの時も同じくらいの賛同者と非賛同者がいる。売れるものは突然火がついたように売れるのではない。もちろんそんな人も時にはいるけれど、ブームは来た時と同じように過ぎてゆく。そんなものを相手にしてはいけない。本物はいつの時代も数は少ないかもしれないが圧倒的な支持者がいるものだ。そういった圧倒的な支持者を少しずつ増やしてゆく。それしか真っ当な方法はない。
はる 3524
先日の香月さんの話、Iさんへのコメント
「真似ることは悪いことではないと思います。いいものはどんどんまねて吸収すればいいと思います。 反対に真似られて独自性がなくなるようなオリジナリティならもともと何もないのと同じだということです。
真似られるというのはそれほど魅力があるということで、偽物がでるほど、物真似がでるほど、人が放って置かないという証拠でしょう。
香月さんにとって材料は秘密のものではなかった。自身の体験は誰も真似できないという自信があったのだと思います」
・・・・・・・・・・
今年度の授業もあと一回あまりになった。このくらいになると、大体私のやり方が飲み込めて、何も言わなくてもスムースに仕事が進んでゆく。仕上がらなければ何時間でも放課後に残してやらせる。無論私も付き合う。時間講師であるからそこまでやる必要はないのだが、そうしなければどうにもシメシがつかない。
どうでもいいという態度を私が見せると、彼らは絶対にいい物をつくろうとはしない。自分の作った作品に愛着がもてないような仕事をやらせても時間の無駄だ。せっかくやらせるならば、徹底していいもの、自分なりに納得のいく作品を作らせてやりたい。たった一年という短い間だったけれど、何か満足感、充実感、達成感を味合わせてやりたいと思うのだ。
無論、向き不向きがあるので一律には言えないのだけれど、今まで多くの生徒と接して思ったことは、ほぼ全ての生徒が少し指導すれば自分の作品に愛着を持つようになるということだ。上手はじょうずなりに下手はへたなりにね。
そのことは多分私の仕事にも反映しているのだと思う。何か人の度肝を抜くような大層なことは多分出来ないだろう。でも人の心の奥底にある、小さな感動する心とか、物を作る喜びとか、愛でることの歓びとか、表現することの面白さとか、考えることの大切さとか、そんなことが極々じんわりと伝わって行けばいいと思う。それが私の仕事の流儀なのではないかな。
先日の香月さんの話、Iさんへのコメント
「真似ることは悪いことではないと思います。いいものはどんどんまねて吸収すればいいと思います。 反対に真似られて独自性がなくなるようなオリジナリティならもともと何もないのと同じだということです。
真似られるというのはそれほど魅力があるということで、偽物がでるほど、物真似がでるほど、人が放って置かないという証拠でしょう。
香月さんにとって材料は秘密のものではなかった。自身の体験は誰も真似できないという自信があったのだと思います」
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今年度の授業もあと一回あまりになった。このくらいになると、大体私のやり方が飲み込めて、何も言わなくてもスムースに仕事が進んでゆく。仕上がらなければ何時間でも放課後に残してやらせる。無論私も付き合う。時間講師であるからそこまでやる必要はないのだが、そうしなければどうにもシメシがつかない。
どうでもいいという態度を私が見せると、彼らは絶対にいい物をつくろうとはしない。自分の作った作品に愛着がもてないような仕事をやらせても時間の無駄だ。せっかくやらせるならば、徹底していいもの、自分なりに納得のいく作品を作らせてやりたい。たった一年という短い間だったけれど、何か満足感、充実感、達成感を味合わせてやりたいと思うのだ。
無論、向き不向きがあるので一律には言えないのだけれど、今まで多くの生徒と接して思ったことは、ほぼ全ての生徒が少し指導すれば自分の作品に愛着を持つようになるということだ。上手はじょうずなりに下手はへたなりにね。
そのことは多分私の仕事にも反映しているのだと思う。何か人の度肝を抜くような大層なことは多分出来ないだろう。でも人の心の奥底にある、小さな感動する心とか、物を作る喜びとか、愛でることの歓びとか、表現することの面白さとか、考えることの大切さとか、そんなことが極々じんわりと伝わって行けばいいと思う。それが私の仕事の流儀なのではないかな。
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