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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 2733
 ゆうちょ銀行なるものに口座を開いた。開いたのはいいのだけれど、手続きが終ったと連絡があるまでニ三日かかる。でその後振り込み用紙の印字されたものが来るまでまたに三日かかる。なんでそんなに手間ひまがかかるのか。納得いかない。電信扱いで振り込めば手数料は500円以上かかる。銀行なんかもそうだけれど、利用者は言われたままだ。明治や大正時代でもあるまいに、システムがどうも上手く稼動していない。

 例えばDMを郵送する。10枚でも100枚でも1000枚でも割引がないというのもオカシイ話だ。定型などといってやたら厳しい規格も融通がきかない最たるものだ。民営になってもなかなか改まらない。まぁ郵政の民営化はあまりいいとも思わないけれど、システムをもっと活性化させて欲しいのは間違いない。

 閑話休題
 学生時代の話をしようか。下宿先のアパートは六畳一間に一畳ほどの台所が着いていた。フロはなくてトイレは共同だった。二階建ての六部屋で、聞くところによると古い学校の施設を移築したということで、売りは出窓になっていて一見古い洋館のようにみえる建物だった。家賃は七千円で雑費を入れても一万円でお釣りが来た。当時でも格安の物件だった。

 最初は私だけだったけれど、段々に勧誘して絵を描く住人が増えて最終的には六部屋中五部屋が絵を描く仲間だった。ここでの生活は抱腹絶倒、漫画より面白い話が山とあり、私の遅い青春グラフィティーであることは確かなことだ。

 教育学部の美術科には同級生が10人もいない。一年から四年まであわせても30人ぐらいのクラスだ。まぁ美術科といいながらも幼児教育から高校の専門の先生の養成コースまであるわけで、美大とか芸大の専門家コースを頭に入れてくるとがっかりするだろう。授業は小中高の美術の授業のあらゆる事、絵を描く事はもちろん、染色やら彫刻、版画、デザイン、焼き物や彫金なんでもありで、好きならばこれほど楽しい専門の授業はない。

 当時は卒業論文などなくて絵画を専門に選んだなら、100号クラスの作品を一点描く事で卒業制作ということで評価された。だから四年生までに自分の専門を選ばなくてはならなかった。今はどういうシステムになっているのか知らない。

 私がこの学校に入学したのは25歳になっていた。一度社会に出てやきものの工房で絵付けをしたり、フリーでバイトしながら絵を描いたりしていたもので、こうやって働かずに奨学金もらって絵画描ける環境が嬉しくて仕方なかった。学生のうちは出来るだけバイトもせずに絵を描くことだけに専念したいと思っていた。授業で絵を描く事だけでは勿論不足だと考えていたので、夜は暇だったので仲間を集めてモデルを頼んで出来るだけ人物を描くようにしていた。

 まぁ絵描きというのがどういうものか、はたしてこの学校を卒業して絵描きとしてやってゆけるのか、多くの先輩はこの地方で学校の先生をやりながら絵を描いていたけれど、絵描きになったという人がいるなどと聞いたことがない。普通に考えてまず定職として学校の先生を選ぶ。そのなかで趣味の延長上で絵を描いてゆく。そう考えるわなぁ・・。卒業する頃になると普通に採用試験の勉強をしていた。妥協案としてそれしかなかったからね。絵だけ描いてゆくという勇気もなかった。

 後は何回も書いた。又今度。
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 朝の散歩道
 かなり暖かい。

 今日は午後から注文してあった額が入ってきた。この額は基本的には大阪の個展のためのもので、今回の銀座の個展では何点か使うだけだ。まぁそんなことはほとんど考えられないけれど、万一全部嫁ぎ先が決まっても困らないように、心配性だからストックもかねて注文した。なぜなら一ヶ月もかかるというので。それから今回はタイ国のクーデター騒ぎがあったもので気気ではなかった。

 届けてくれたのが、画材やの二代目のボンだ。彼はもう生まれた頃から知っているわけで、まだお店が学校の近くで四畳半ほどのスペースでやっていたころで、店が狭いものだから彼は押入れで寝ていた。だから頭が変形して四角くなったと真面目に悩んでいた時期があったようだ。我々不真面目な絵描きの冗談を真面目にとったようだ。

 この画材店とは学生時代からの付き合いで、もう30年になる。学生時代は奨学金が入れば借金を返しにいったものだ。それから絵の具やオイルを買った。キャンバスはベニヤ板を買って来て地塗りして代用した。一枚のベニヤ版で5,6枚の10号のボードができて、それを何枚か重ねてスーパーカブでスケッチに出かけた。

 夏休みには学校の宿舎が八ヶ岳にあって格安の料金で泊まる事が出来た。ほとんどバイトもしないでそこでこもって絵を描いた。だれも来なかったので絵を描くには都合が良かった。

 今回画集を作るに当たってその頃の絵が何枚か出てきた。何のことはない極普通の絵だけれど懐かしい。



はる 2731
 さていよいよ個展まで押し詰まって参りました。もうほとんど準備は整っているのですが、それはそれ、やっぱり迫ってくると緊張するのだな。しかし、まぁ楽しみという面も大きくてね。ちょうど多くの国画の作家が展覧会を開催しているシーズンなので、それもまた楽しい。

 「売り絵」は描かないということをいう作家がいる。言葉使いがわるいのか「売り絵」という響きの中には「中味のない絵」というニュアンスがある。総じて小品を「売り絵」と捕らえる人もいるなぁ、難しい所だけれど、絵を売らなくても生活できるならそれでもいいかなとは思うけれどね。

 小品の場合ある意味人手に渡る事を前提に描いているところもある。だからと言って媚びているつもりもないのだけれどね。自分の好きな絵を描きながら、尚且つ人様にも好ましく想ってもらうとありがたい、それぐらいだろうか。ちょっと歯切れが悪い。

 自分も少しばかり教える事で糊口をしのいでいるところがあるから言えるのだけれど、本当は教える事で収入を得ては大事なことが逃げてしまうように思う。この大事なことというのが難しいのだけれど、ある種の感覚なんだけれどね、人が何を欲しているか?度が過ぎると媚びへつらいになって、まぁ要するに「売り絵」になってしまうのだけれどね。

 芸能というのは大衆のものだと思うんだな、大衆の欲しているものに対するアンテナが必要だと思う。通俗性というのかもしれんけれどね。保護したり、援助されたりするものはやがては力を失って消えていってしまうだろう。

 芸能と芸術は違うというかもしれん。でもなぁどんなに高尚な芸事でも多くの人から支持されないものは力にはならないし、自己満足で終ってしまうだろう。絵描きは絵でしのいで行かねば一人前にはならんのじゃないかな。ただ限度があってね、売る事ばかり考えた絵は、またつまらない。作家の人となりが出たものでなければ面白くない。 なんかこれも歯切れが悪いな。





 はる 2730
 詳しいことはなにも知らないけれど、いつものようにあるだけの知識で適当に書く。間違っていても知らんぞ。

 日本のように自然発生的に村が集まって町になってそれが寄せ集まって大きな町になってやがて国になったというふうな国家のあり方は成文法という考えは希薄なように思う。どちらかといえば今まではこうだったから、今回もあれじゃないのといった慣例法的な法が多いのじゃないだろうか。

 それに比べてアメリカなどの新しい国は最初に雑多な人々が集まって、さてここに国を作りましょう。だからそれに合わせて法を作ります。つくった限りは従いましょう。法に触れたらこうなります、と決めた。この自分たちで決めたことが大事だな。上からオフレのように命令を下すわけではない。

 そういった国では確かに裁判員制度というのは有効だと思う。自分たちの作った国だ。おらが村だ、という意識がある。けれどこの国はどうなんだろうなぁ・・。今急に裁判員に任命されても困るよな。そういった知識もないし、教育も受けていない。

 



はる 2729
 大阪の知事が小中学校での携帯持込を原則禁止を打ち出した。高校生で95%ぐらいすでに持っていて、中学でも50%ぐらいの生徒が所持しているそうだ。

 まぁ高校の教壇に立つ立場からいえば、はっきり言って携帯は迷惑だ。もう学校で禁止してもらえるならそらありがたい。でもこれは徹底するのは難しいだろうな。持ち物検査みたいなことやるのは刑務所みたいで嫌だしなぁ。本人の良識なんて当てにしていると、まったくやらないのと同じことだ。それに親が承諾している場合それをダメだしするのはもっと難しい。決めたなら違反者に当然ペナルティーをかさなければ意味ないわけでね。これもまた難しいだろう。

 携帯の場合なんかもそうだけれど、道具が先に生活のなかに入ってきてしまっている訳で、まだルールも何も決まっていない段階で100%近く蔓延してしまっている。後からルールを作って縛るのは尚難しい。

 来年から裁判員制度が適用されるようだけれど、私が無知なのか何も知らないうちにそんな大事なことが決まっていたの??という感じだ。ほとんど人がそうじゃないだろうか。

 今までは誰か専門家がどこか分からない所で人を裁いていた訳だ。それが突然あなたにもそれを手伝ってくれと決まったわけだ。本当にそんなに簡単な事なのか。凄く不安。

 本来「人を裁くのは人」なんだな。今までは、どこか超越した神がいてそれが罰を与えてきたようにおもったけれど、実際は人が裁いていたわけだ。そのことに今さらのように気がついた。このことは大事なことだな。

 色々な権利と義務がある。その中でもとくに人を裁くことに参加する義務というのは民主主義の根幹じゃないのか。だからもっとしっかり準備して教育してからはじめた方がいいように思う。何か心情的なあやふやなことで。ルールが変わってしまうのは恐ろしいなぁと反対に思うな。

 大体においてそういったことが曖昧だ。どないなってんねん。分からんぞ、誰かがもっと分かりやすく説明する必要があるのんちゃうんか。でないと力持ってたり、金持ちがみんな無罪になりよるで。そんなんでいいか。

 この間のアメリカの大統領選挙と同じだけれど、ルール(法)を決めるのは我々(人)なんだ、だから決めた以上従う。そういった社会意識というのが育っていない気がするな。大人になっていない子供みたいなものだ。



はる 2728
 どうもきのうの続きを書きたくなった。いつもは寝る前にちょこちょこと書くのだが、今日はまだ午前中なのにこれを書いている。

 生きるということは欲の中にいるわけで、まるで欲のない生というのはありえない。その欲を満たす事で喜びを得られる事も事実だけれど、反対に欲のために苦しめられる事にもなる。

 まぁ今の葬式仏教やお飾りの教会のことはさておいて、多くの宗教は究極的には自己放棄を説いている。分かりやすい言葉で言えば「何もいらない」と言うことになるのかな。これがなかなか出来ない。「何もいらない」ということを主張する欲ということもあるわけでね、難しい。「なにもいらない」とは、ひっそりと何も言わず、目立たず、消えてゆく、そんなあり方を言うのじゃないだろうかね。 大声で「なにもいらねぇ~」というのは反対に「みんな欲しい」の裏返しのような気もする。まだまだだねぇ。

 高村光太郎なども親父が偉大な彫刻家だったから、どうにも親父が煙たくて仕方がない。事実彫刻家としては親父の方が数段優れていた。光太郎の方はどちらかと言えば詩人として仕事を残したけれど、まぁそれも嫁はんの智恵子さんがいたからだ。彼女がおかしくなって亡くなってから何もかも捨てて岩手県花巻郊外の山間にほぼ死ぬまで、一人世捨て人のように過ごす。まぁこれなんかも典型的な隠者・世捨て人のパターンで、形は違うけれ、昨日の映画のテーマと似ている。




寂しい土曜の繁華街

はる 2727
 今年はいつもより喪中のハガキが多い気がする。これから年々増えてゆくのかな。年賀状も段々少なくしたいね。まぁほとんど会うことがないような遠方の人なら年に一度の年賀状も必要かもしれないけれど、いつもあっている人にお元気ですかもない。

 映画「イントゥ・ザ・ ワイルド」を観る。簡単に言えば60年代から70年代ころのカウンターカルチャー・ヒッピー文化の話だ。だからちょうど私が学生だった頃の話で、出てくる風物や本(ソロの「森の生活」)なんかも親近感のあるものばかりだった。

 何だかね、あの頃はやたらと放浪の真似事をする奴が多かった。学校が休みになる夏になると汚らしい浮浪者のような若者がバックパックを背負って色んな所を徘徊していた。あれも一種のブームだと思うのだけれど、社会全体がドロップアウトというのか反体制的なものに寛容だった気がするな。

 東洋には比較的そういった巡礼とか旅(死出の旅)に心情的に許してしまう下地があるけれど、アメリカのような新しい国の場合、今までが前向きな生き方だけだったのが、ちょっと後ろ向きもいいかなと言ったところかもしれない。今何故こんな映画が作られたのかなぁと考えると、まぁちょっとあの頃と似た雰囲気もあるのかな。

 主人公が大学を卒業して就職しないで放浪の旅に出るところから始まる。親父さんからの「車のプレゼント」を拒否する。貯金もカードも親からもらった物は何もかも捨ててしまう。まぁここで私はフランチェスコを思い出した。

 いつの時代もそうなんだ。一つの生き方として前の世代の、要するに親父の財産を引き継ぐかたちで世の中を渡ってゆく。今の世襲議員なんかもそうだけれど、考え方によれば、親が作ってきた「金、看板、コネ」をそっくり引き継ぐ訳だから効率がいい生き方であるわけだ。普通考えれば誰もそちらの方を選ぶ。

 もう一方は、そういったものを全て否定して、自分の持っているものだけで世の中を渡って行こうとする生き方。こちらの方は元々何もないわけだから、貧しいし、蓄えも、コネもない。一歩間違えばただの浮浪者になる可能性もあるわけだ。まぁ反体制を気取っていた若者も最後にはやっぱり普通の体制側に戻っていった人も多かったんだけれどね。

 私などはどちらかと言えば後者の生き方の心情的に賛成の方だから、この映画を観ても何の違和感もない。反対に当たり前すぎて感動もないな。「青年は荒野をめざす」というフォークソングがあったけれど、「オジサンは今も荒野にいる」なんて洒落にならないか。

 まぁ親との争い。特に同性の親との争いがテーマかな。



2008 画集
 画集の見本が出来てきた。(今年の個展のカタログも兼ねている)
 
 今日、昨日と文章や画像の校正をする。まぁ画集というほど立派なものでもないし、作品の数(39点)もそれほど多くない。過去の大きい作品20点に今年の小品19点という内訳。それでも初めて自分の作品が本になるということで嬉しい。ニマニマとしてしまう。

 色んな作家が自分の画集を出版している。無論作家の自費出版と大手の出版社が出すものとは自ずから違うもので、ほとんどの場合、自費出版本は右から左に消えてしまう運命にある。作家の自己満足でしかない。まぁそれでもやっぱり自分の作品をまとめたものを「かたちあるもの」にしたいという気持ちは止められないな。

 簡単なものだけど、私の作品の過去から現在に至る流れを見ることができる。普段ブログで色々自分のことを語っているので今さら新しい事も無いのだけれど、今回あらためて自分の作品をふり返ってみると、まぁ面白い発見もあった。誰も皆突然今のスタイルになった訳ではない。それなりの必然があって今のスタイルに変わっていったわけで、因果応報というのかこんな所にも自然の原則は生きている。

 芸事というのは面白いもので、必ず自分の生き様が出てくる。反対にどんなに上手であっても生き様の出てこないものは職人仕事みたいなもので、面白みの欠けるものになってしまう。表現のスタイルというのかステージの変化は決してゆるやかにはやってこない。日々努力していると突然開眼する。分からなかったものが突然理解できるといった感じかな。

 絵でも同じで、スタイルの変化を見ると案外変わるときには突然全く変わる。で徐々にまた昔のスタイル取り込んで穏健な感じに変化する。まぁ消化した、自分のものにしたということかな。で、それでも変わらないものというのがあるわけで、それが私という人間の核じゃないかと思う。たぶんねぇ、その核を形作っているものは私のという範ちゅうを越えたものじゃないかな。人類とか生命のといった。

 眠くなった。また。
 

 

 


 今日はパスします。



このブルーへブンという歌が好きだった。オリジナルはもちろんジャズのスタンダードなんだろうけれど、私が親しんだのはエノケンの「♪♪日が暮れて♪♪」と唄う浅草オペラの方かな。後シャンハイバンスキングの主題歌だった「月光値千金」という歌も好きだったなぁ。そういう意味ではませてたのかもしれない。

 小さい頃はやっていた歌というのは今でも懐かしい。「月だとっても青いから、遠回りして帰ろう」なんて、なかなか今じゃ唄えないね。そういうシーンがないものな。周りが明るすぎる。昔は町から一歩路地に入ると真っ暗だった。見上げたら青い月がこうこうと輝いていたなんてことが多かった。この光がとても悲しい色でね。

 また後で書けたら書きましょう。
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