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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3689
 七月がもう終わってしまう。あっという間のことだ。例年七月のこの時期に神戸で個展をしていたので、何も無いのは何となく寂しい。恒例のギャラリーSのグループ展も今年はパスした。グループ展というのも何だかよくわからない。一人一人がお客さんを呼べる力があるなら別なのだが、私が毎年出品しても単に寄せ集めの展覧会に過ぎない気がしてね。悲しいけれど、それが現実だ。もう少し力をつけてから出品することを考えよう。

 「こころのデッサン」に「猫の後る姿」さんがコメントを書いてくれました。
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10969568322.html
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 お袋の新盆があってその後お墓を新しくしたので、入魂というのか名称はよく知らないのだけど、新しいお墓に先祖のお骨をまとめて入れたりそんな儀式を炎天下の中兄弟が集まってやった。お坊さんもたいへんだろうけれど、喪服を着て炎天下に立たされるのはけっこうつらかったな。こちらがミイラになりそうだった。

 自分たちはどうするのか、いまのところ深刻には考えてはいないけれど、後20年もすればひつようになるわけで、お墓を持つのか、永代供養にしてお墓など持たないのか、どこかに散骨して遺影か位牌だけ目印においておくか、全く何も持たないか、そんなことを考えなきゃならない時が来る。

 自分の両親は無事に送った。これで一応の区切りはついた。

 七月も終わる。



 
はる 3687
 どうやら本格的な風邪の模様。旅に出て風邪をこじらせるのはつらいので、早速近くの病院へゆく。体がだるい。

 



 
はる 3685
 どうやら夏風邪をひいたようだ。何となく一日だるい。花粉症でもないのにくしゃみの連発。鼻汁がでる。夜暑いので窓を開けて寝たのが原因だろう。

 お袋の新盆のため、明日から帰省します。少し更新が滞りがちになるでしょう。あしからず。

 



 
はる 3683
 中国の高速鉄道の事故はすごい。何が凄いかといえば事故後の対応のすばやさだな。事故を起こした列車を検証もそこそこに現場に穴を掘って埋めてしまうという大胆なことを恥じらいもせずやるおおらかさだ。多分死者の数もいい加減なんだろうと推測する。

 なんせ国家の威信をかけた大プロジェクトだったからね。いたずらに検証してほじくり返して何か異なもの、例えば致命的な欠陥とか、手抜きとか、官僚の賄賂とか、が出てきて責任問題になると簡単に抹殺されてしまうお国柄だから、目の前から消えてもらう、ないものにするのが一番手っ取り早い解決方法だからね。

 こういった事故というのは大事な教訓が隠れているもので、それを全く無視しては進歩と言うものがない。亡くなった方には申し訳ないけれど、身を挺して国の人命軽視、一党独裁の異常なことを内外に知ってもらうきっかけを作ったと思えば浮かばれるやもしれない。この対応をしくじるとけっこうやばいことになるかもしれない。

 他人事のように書いているけれど、この国の原発も似たようなものだ。対応は後手後手で今頃になって牛肉から放射能が出てきたなんて騒いでいる。そんなことはもう既に三月の原発が爆発した時から分っていたことだ。北関東一円の農産物は明らかに汚染されている。これは嘘でも脅かしでもない、事実だ。

 その事を隠して通れるものではない。もうかなり遅いけれど、その上に立ってこれからどうするのか、子供たちを疎開させるとか、具体的な指針を発表すべきだ。この国の政治も全く信頼できないということが露呈された。少なくともかの国よりこうやって事実を少しでも知る事が出来るということが、慰めではある。少しは望みもある。

 



 
 知り合いの誕生日でした。おめでとう。いい写真ですね。



 
はる 3680
 今日は比較的に涼しかった。涼しいというのもおかしい話だ。台風一過なのにね。普通は湿った空気が入り込んで蒸し暑くなるのだが、秋のようなさわやかな風が吹いていた。このまま終わるとも思えないけれどね。

 本屋さんに立ち読みに出かける。美術雑誌が二十日前後で新刊がでるからだ。昔は芸術新潮をはじめとして、結構色々な雑誌を講読していたのだが、雑誌の定期の購読は一切やめてしまった。すぐに溜まっておき場所に困るというのが第一なんだけれど、別に必要な情報は立ち読みで間に合うし、どうしても欲しい情報ならその巻だけ購入すれば済む事だ。もちろん経費も馬鹿にならないということがあるのだけれどね。

 定期に購読していた大きな理由は、今流行っている美術の動向が気になっていた。それは公募展に出品していたこととも関係する。こういったコンクールは時代の風と言うのを如実に受けるもので、今何が受けるのか、受けているのかということを意識しなければならないと思い込んでいた。

 毎年上半期・下半期のコンクールの大賞受賞者というのが発表される。その時の出品点数や審査員のメンバー傾向などを食い入るようにながめていた。まぁ何だろう、時代がバブリーな浮ついた雰囲気を煽っていたようなところがある。賞金もどんどんつり上がって、否が応でも射幸心を煽って、ほとんど博打のような浅はかさだ。ほんの少し前のことなのに、百年も前のことのように感じる。

 私が浅はかだったということもあるけれど、あれはやっぱり異常だったんだと思う。長い目で見るとバブリーな雰囲気そのものに呑まれていたんだろうな。それがそのまま時代の雰囲気だったきがする。あのまま時代の波に飲まれていたら、多分今のようなスタンスでは暮らしてはいけなかっただろう。結果論ではあるけれど、無名のままでよかった気がする。

 で、雑誌をぱらぱらと見て、今をときめく作家の作品を何百と見ても、私の心に届く作品は何点もない。たぶんもう今の時代の最前線ははるか遠くに行ってしまって見えなくなってしまっているのだろうな。

 けれど、大切なものというものは変らなくそこにあって、時代がどんなにかわっても変らないもの、そんなものを表現したいと最近は思うのだな。



 
 長く一つの仕事をしているとそれなりに色んな役がまわって来る。まぁその事は順番みたいなものだから、出来る事は手伝うし、やれない事ははっきりと言う事にしている。その方がお互い様だろう。

 公の仕事(といってももちろんボランティア)に関係すると、いつも何かむなしいものを感じる。何でもそうなんだけれど、お役人にとっては単に役割分担の仕事であって、それが大事とか面白いとかやる気になるといったものではない。いちいち一つの与えられた役割に価値を求めていたのでは反対に仕事にはならない。与えられた事を過不足なく遂行すること、ただその事だけに関心がある。

 随分と前に市内の活性化というので、空き店舗を活用した展覧会を公の機関が主催した。そのことはいい。けれど、彼らが一番気にしたのは何かといえば、展覧会そのものがどれだけ市民に受け入れられたかとか、どれだけの動員数があったかなどではなく、オープニングのセレモニーに誰を呼んで、どう報道するか、記録にどう載せるかという本来の活性化などどうでも良くて、自分たちの仕事が実績として残ると言う事だけが重要だという風に動いていることだ。本末転倒という。

 公の機関が主催して展覧会を開く。まぁそれはいいだろう。今街中は建設ラッシュで古いビルを惜しげもなく壊して、新しいビルを建てている最中だ。といったわけで会場がない。会場がないなら普通は取りやめにするだろう、けれど彼らにはそういったことが決められない。自分たちの仕事はまず「展覧会を開催すること」であって、取りやめるということは(仕事をやっていない→できない)と評価されてマイナスになると考える訳だ。

 だから重要であろうがなかろうが、彼らには関係ない。兎に角どんな場所でも確保して展覧会を開催してもらおうと必死になるわけだ。我々にとっては奇妙な誰も来ないようなヒナビタ頓珍漢な場所でやるくらいなら、一年や二年休んでも全然平気なんだが、それが理解できない。

 もう一つは展覧会のネーミングだ。一度聞いただけでは理解できない、よく分からない、ワザと分らなく難しく表現しているのではないかと疑りたくなるようなネーミングだ。例えば本のタイトルは滅茶苦茶重要だ。大体タイトルで売れるか売れないか分る。展覧会のネーミングも同じだと言う事が理解できないようだ。

 例えば「強制避難地区」「計画的避難区域」「緊急時避難準備区域」などと言われても何がどう違うのか理解できない。それと同じようなものか。

 はっきり誰が見ても聞いても分るような展覧会の名前にして欲しいと、何年も前から指摘しているのだけれど、いっこうに変る様子がない。

 まったく、原発と同じだな。一度決まったものは変えられない。変えるのにものすごくエネルギーが要るという事だ。馬鹿馬鹿しいけれど、これが現実だ。
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