画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
→ http://enami.sakura.ne.jp
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
はる 3591
言った言葉はすべて自分に跳ね返ってくるのだけれど、そのことは棚において言うしかない。どうも政府は東電だけが悪くて、今回の件は自分たちには責任がなく被害者であるというふうに仕向けている感じが見て取れる。誰かを責任者にしてそれに泥を被ってもらって、手早く済ませて今回のことを風化させたい、なかったものにしたい、あったとしても大したことなくて、早く安全宣言したいという風に仕向けているようにみえる。
誰が悪いこれが悪いといってもおきてしまったものは仕方ないじゃないの、それよりも早く復興作業に入った方がいいのじゃないか、というふうな何かを見つけられるのが怖くて隠しているように思えるな。悪いのはそこに
こそこそ隠れている原子力安全委員、保安員という官僚だだぞ。何もしないで高給だけもらって、天下り先を考えている、たまたま自分がここの配属になった時に起こった事故でなぜ責任を取らなきゃならないのだ。我々は決められた安全と言われるマニュアルのとおり仕事をしていただけで、それ以上の責任ははっきりいてない。そう顔が言っている。
法律上は多分責任は問えないのかもしれない。何も失策はしていない。想定内のことであるならば今までどおり淡々と処理できていたわけだ。想定外のことをあれこれ考えて差し出がましいことをする役職ではない。想定外の津波が来て原発が壊れた、その責任は我々にはない。心情的には責任がありそうだけれど、法律上では多分何の責任もないと思われる。だから彼らは淡々としているのだ。悪いのは事故を起こした東電だ。と言う風にね。
ここからは推論でしかない。間違えている可能瀬もあるので、すらすらよんでくださいな。
官僚、役人というのはいつもそうだ。自分たちの保身しか考えていない。そのことが次第に組織を蝕んで行くことが理解できない。まぁ多分その中にどっぷりとつかってしまえば、何も見えなくなってしまう。旧東側の社会主義体制もそうだった。全ての人が平等に仕事にありつけて、貧富の差がない理想的な社会。それが夢だったわけだけれどね。人と言うのはそれだけでは生きてはいけないということだ。一生懸命働かなくてもいい、適当にやっても同じだと言うことになれば、嫌なことはやらなくなってしまう。既得権を持ったものはそれを守るために一生懸命になる、本来の仕事以上にね。本末転倒。そうやって次第に社会が腐っていった。
戦後、戦争責任を問う東京裁判があった。最後の東条英機の姿を映画などでみるけれど、その姿はどこか隣の頑固祖父さんのようであり、軍服姿でふんぞり返ってはいるけれど、どこか憎めないおじさんのように見える。ドイツの戦犯であるところのヒットラーなどとは明らかに違う。彼は明らかな意志をもって戦争を遂行した。連合軍からみれば誰かを最高責任者にしなければ理論上裁判は成り立たないのだろうけれど、本当に彼が責任者なのかどうか、その自覚があったのかどうか、疑わしい。
負けるとわかっていた戦争になぜ闇雲に突っ込んでいったのか?軍部、官僚の暴走というけれど、本当に彼らだけが暴走していっただけなのか?実態のある、戦争を推し進めていった人なり団体というものが実際にあったのかどうか?当時の軍というのはエリート集団で今で言う高級官僚なんだな。私は今回の原発のケースも同じようなものの気がする。誰かが実質的に責任をとって推し進めたわけではない。だからだれも責任がとれないのだな。集団としては存在するけれど、実体はない高級官僚なんだ。
で、ここが真実なんだけれど、それを許しているのは実は我々日本人全ての中にある、漠然とした優柔不断な付和雷同型の鵺の様な気質ということだ。
例えば年金問題でもそうだ。だれも責任をとらない。誰かが意識して年金を騙し取ったと言うならば犯罪にも問えるかもしれない。けれど総体として兎に角進んでしまっている。個人の仕事としては何の問題もなく、淡々と仕事が済んでしまっている。結局いずれは破綻してにっちもさっちも行かなくなるだろうということは何となく予測はできるのだが、そんなことを考える役職にはない。だからまぁいいやとそのままにしておいた。私の仕事は言われたことを淡々とそれ以上でもそれ以下でもなくやることである。
我々は基本的には凄くまじめで小心である。農耕民族の血が多分そうさせるのだと思うのだけれど、決まったことを疑いもせず、淡々とこなしてゆくということは大いに得意とする。大勢というのか全体の意志というのか、そんなものに実体はないのだけれど、付和雷同型についてゆくのを得意とする。自分の意思で考えることを止めてしまう。その方が多分楽だからだと思える。ある時気付いたのだけれど、それは私の中にもある部分なのだ。
「自ら考えることを止めてついて行く」という体質は例えば何か大きな事件や事故がおきた時に協力して成し遂げるとか、国がとんでもない状態になって国民全体が一丸となってという風なときには大きな力にはなる。明治維新や二次大戦後など大いなる国難の時にはそれが役に立った。けれど目標が明らかに見えなくなった時には危ないね。どこに行くか分らなくなってしまう。なぜなら一人一人が考えることを止めてしまうからだな。
多分これからも大きく変る事は期待できないだろうな。けれど変るチャンスではあるきがする。自ら考えて行動する、そんな行動パターンで生きる人が増えてゆけば総体で変ってゆくのではないだろうか。与えられたもの(既成の価値観、誰かのアイディア)ではなく、あるもの(自ら行動して得られた言葉や体験)で工夫して考える、それが自ら考えると言うことだろう。
しかし、それは良くも悪くも今までの日本ではありえないということだ。
言った言葉はすべて自分に跳ね返ってくるのだけれど、そのことは棚において言うしかない。どうも政府は東電だけが悪くて、今回の件は自分たちには責任がなく被害者であるというふうに仕向けている感じが見て取れる。誰かを責任者にしてそれに泥を被ってもらって、手早く済ませて今回のことを風化させたい、なかったものにしたい、あったとしても大したことなくて、早く安全宣言したいという風に仕向けているようにみえる。
誰が悪いこれが悪いといってもおきてしまったものは仕方ないじゃないの、それよりも早く復興作業に入った方がいいのじゃないか、というふうな何かを見つけられるのが怖くて隠しているように思えるな。悪いのはそこに
こそこそ隠れている原子力安全委員、保安員という官僚だだぞ。何もしないで高給だけもらって、天下り先を考えている、たまたま自分がここの配属になった時に起こった事故でなぜ責任を取らなきゃならないのだ。我々は決められた安全と言われるマニュアルのとおり仕事をしていただけで、それ以上の責任ははっきりいてない。そう顔が言っている。
法律上は多分責任は問えないのかもしれない。何も失策はしていない。想定内のことであるならば今までどおり淡々と処理できていたわけだ。想定外のことをあれこれ考えて差し出がましいことをする役職ではない。想定外の津波が来て原発が壊れた、その責任は我々にはない。心情的には責任がありそうだけれど、法律上では多分何の責任もないと思われる。だから彼らは淡々としているのだ。悪いのは事故を起こした東電だ。と言う風にね。
ここからは推論でしかない。間違えている可能瀬もあるので、すらすらよんでくださいな。
官僚、役人というのはいつもそうだ。自分たちの保身しか考えていない。そのことが次第に組織を蝕んで行くことが理解できない。まぁ多分その中にどっぷりとつかってしまえば、何も見えなくなってしまう。旧東側の社会主義体制もそうだった。全ての人が平等に仕事にありつけて、貧富の差がない理想的な社会。それが夢だったわけだけれどね。人と言うのはそれだけでは生きてはいけないということだ。一生懸命働かなくてもいい、適当にやっても同じだと言うことになれば、嫌なことはやらなくなってしまう。既得権を持ったものはそれを守るために一生懸命になる、本来の仕事以上にね。本末転倒。そうやって次第に社会が腐っていった。
戦後、戦争責任を問う東京裁判があった。最後の東条英機の姿を映画などでみるけれど、その姿はどこか隣の頑固祖父さんのようであり、軍服姿でふんぞり返ってはいるけれど、どこか憎めないおじさんのように見える。ドイツの戦犯であるところのヒットラーなどとは明らかに違う。彼は明らかな意志をもって戦争を遂行した。連合軍からみれば誰かを最高責任者にしなければ理論上裁判は成り立たないのだろうけれど、本当に彼が責任者なのかどうか、その自覚があったのかどうか、疑わしい。
負けるとわかっていた戦争になぜ闇雲に突っ込んでいったのか?軍部、官僚の暴走というけれど、本当に彼らだけが暴走していっただけなのか?実態のある、戦争を推し進めていった人なり団体というものが実際にあったのかどうか?当時の軍というのはエリート集団で今で言う高級官僚なんだな。私は今回の原発のケースも同じようなものの気がする。誰かが実質的に責任をとって推し進めたわけではない。だからだれも責任がとれないのだな。集団としては存在するけれど、実体はない高級官僚なんだ。
で、ここが真実なんだけれど、それを許しているのは実は我々日本人全ての中にある、漠然とした優柔不断な付和雷同型の鵺の様な気質ということだ。
例えば年金問題でもそうだ。だれも責任をとらない。誰かが意識して年金を騙し取ったと言うならば犯罪にも問えるかもしれない。けれど総体として兎に角進んでしまっている。個人の仕事としては何の問題もなく、淡々と仕事が済んでしまっている。結局いずれは破綻してにっちもさっちも行かなくなるだろうということは何となく予測はできるのだが、そんなことを考える役職にはない。だからまぁいいやとそのままにしておいた。私の仕事は言われたことを淡々とそれ以上でもそれ以下でもなくやることである。
我々は基本的には凄くまじめで小心である。農耕民族の血が多分そうさせるのだと思うのだけれど、決まったことを疑いもせず、淡々とこなしてゆくということは大いに得意とする。大勢というのか全体の意志というのか、そんなものに実体はないのだけれど、付和雷同型についてゆくのを得意とする。自分の意思で考えることを止めてしまう。その方が多分楽だからだと思える。ある時気付いたのだけれど、それは私の中にもある部分なのだ。
「自ら考えることを止めてついて行く」という体質は例えば何か大きな事件や事故がおきた時に協力して成し遂げるとか、国がとんでもない状態になって国民全体が一丸となってという風なときには大きな力にはなる。明治維新や二次大戦後など大いなる国難の時にはそれが役に立った。けれど目標が明らかに見えなくなった時には危ないね。どこに行くか分らなくなってしまう。なぜなら一人一人が考えることを止めてしまうからだな。
多分これからも大きく変る事は期待できないだろうな。けれど変るチャンスではあるきがする。自ら考えて行動する、そんな行動パターンで生きる人が増えてゆけば総体で変ってゆくのではないだろうか。与えられたもの(既成の価値観、誰かのアイディア)ではなく、あるもの(自ら行動して得られた言葉や体験)で工夫して考える、それが自ら考えると言うことだろう。
しかし、それは良くも悪くも今までの日本ではありえないということだ。
PR
この記事にコメントする
**
***
****
ブログ内検索
アーカイブ