画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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整理されていないへんてこな文章だけれど、そのままアップします。
はる 3579
何だか憂鬱だ。新学期が始まるからか、それもある。けれどやっぱりあれのせいだ。いよいよレベル7になった。第二のチェルノブイリということだ。ヒロシマ、ナガサキは被害者として、フクシマはここから何十年も下手すれば何百年も語り継がれる、人類の失敗例として記憶される町になってしまった。とても残念に思う。人類の英知がこんな形でいともあっけなく吹き飛んでしまったことが、情けないというのか、こんな形で記憶されることが腹立たしい。
今朝の地震のおりの東電の状況説明を聞いてもまだまだ本質的には懲りていないし、このままの状態が続くのであろうと思われる。彼らが悪いとかだれそれが失敗した、ごまかしたというような犯人探しをしているのではない。悪いのは我々全ての責任だろう。
具体的に何が違うのかと感じたかと言えば、記者が原発の電源は大丈夫か?という質問にこんな風に答えていた。外部電源は複数あって「わが社の電源は大丈夫です、他の会社のものは分りません」これは非常に今回の事故の様子を表していると思う。
原子炉を作ったのは東電ではない、大手の電気機器会社だ。彼らの仕事はまぁ今までの想定内であれば絶対に壊れない原子炉を作るということだ。地震があれば「止めて、冷やして、もらさない」だっけ、そんな原則で設計した。原発は日本が世界の中でも技術的に一番進んでいて、これこれの条件で作ってくれと言われれば、職人的なもの作りの技でつくってしまう。そんな技術を日本は持っている。で実際にそんな強固なものを作った。
それでも地震が起きて送電が止まってしまった時の事は自分たちの責任ではないのだな。それは設備屋さんだったり、それこそ電気やさんだったりするのだろう。それも送電が止まってしまえば、彼らは何もできない。電源があって計器が動いていれば何とか作業できるのだが、停電になってしまえばやることはない。停電は自分たちの責任ではない。
最後にそれをコントロールする東電さんにおいては、ただ機械を使うだけだだな。コンピュータは使えても壊れてしまえば自分では修理できない、まして電源が落ちてしまえば何も出来ない。自分たちのせいではない。
それぞれの立場でそれぞれの仕事をやっている。決して手抜きをしているとは思えない。いったん事故が起きれば取り返しのつかないことになるということは彼らも充分感じていただろう。
何が問題か?ということだな。
お役人仕事とよく言われるけれど、仕事というのが高度に細分化、マニュアル化してくると、全く全体が見えなくなってしまう。部分を任された人間はそのことを「出来るだけ間違わないように」「出来るだけ無駄を省いて」「要領よくやる」ということに一生懸命になる。本人は至極まじめにそつなくやっているのだが、いつの間にか仕事そのものが単に一連の作業になってしまう。意味のないルーティンになって、想像力のない、何事もないのが一番の仕事と言う風になってしまう。これがお役所仕事のもっとも怖いところ。
素朴に単純に考えて極当たり前のことさえ想像できていない。想像することを拒んでいるようにさえ見える。あれほど高度な精密機械や電気機器を作ることができる頭のいい人たちが、なんという単純なミスをおかすのだろう。
「木を見て森を見ず」というようなたとえ話があるけれど、我々はずっと木ばかりを見ていたのではないかな。木を見ること、木だけを見ることを奨励していたのでないかな。森には心地よい風が吹いたり、動物や小さな生き物がいて、雨が降ってそんな生命を守って育てる、何よりも人智を超えた神がいる。そんな全体を見る目が我々には欠けていたのではないかな。
悲しいけれど、前に向って進むしかない。
はる 3579
何だか憂鬱だ。新学期が始まるからか、それもある。けれどやっぱりあれのせいだ。いよいよレベル7になった。第二のチェルノブイリということだ。ヒロシマ、ナガサキは被害者として、フクシマはここから何十年も下手すれば何百年も語り継がれる、人類の失敗例として記憶される町になってしまった。とても残念に思う。人類の英知がこんな形でいともあっけなく吹き飛んでしまったことが、情けないというのか、こんな形で記憶されることが腹立たしい。
今朝の地震のおりの東電の状況説明を聞いてもまだまだ本質的には懲りていないし、このままの状態が続くのであろうと思われる。彼らが悪いとかだれそれが失敗した、ごまかしたというような犯人探しをしているのではない。悪いのは我々全ての責任だろう。
具体的に何が違うのかと感じたかと言えば、記者が原発の電源は大丈夫か?という質問にこんな風に答えていた。外部電源は複数あって「わが社の電源は大丈夫です、他の会社のものは分りません」これは非常に今回の事故の様子を表していると思う。
原子炉を作ったのは東電ではない、大手の電気機器会社だ。彼らの仕事はまぁ今までの想定内であれば絶対に壊れない原子炉を作るということだ。地震があれば「止めて、冷やして、もらさない」だっけ、そんな原則で設計した。原発は日本が世界の中でも技術的に一番進んでいて、これこれの条件で作ってくれと言われれば、職人的なもの作りの技でつくってしまう。そんな技術を日本は持っている。で実際にそんな強固なものを作った。
それでも地震が起きて送電が止まってしまった時の事は自分たちの責任ではないのだな。それは設備屋さんだったり、それこそ電気やさんだったりするのだろう。それも送電が止まってしまえば、彼らは何もできない。電源があって計器が動いていれば何とか作業できるのだが、停電になってしまえばやることはない。停電は自分たちの責任ではない。
最後にそれをコントロールする東電さんにおいては、ただ機械を使うだけだだな。コンピュータは使えても壊れてしまえば自分では修理できない、まして電源が落ちてしまえば何も出来ない。自分たちのせいではない。
それぞれの立場でそれぞれの仕事をやっている。決して手抜きをしているとは思えない。いったん事故が起きれば取り返しのつかないことになるということは彼らも充分感じていただろう。
何が問題か?ということだな。
お役人仕事とよく言われるけれど、仕事というのが高度に細分化、マニュアル化してくると、全く全体が見えなくなってしまう。部分を任された人間はそのことを「出来るだけ間違わないように」「出来るだけ無駄を省いて」「要領よくやる」ということに一生懸命になる。本人は至極まじめにそつなくやっているのだが、いつの間にか仕事そのものが単に一連の作業になってしまう。意味のないルーティンになって、想像力のない、何事もないのが一番の仕事と言う風になってしまう。これがお役所仕事のもっとも怖いところ。
素朴に単純に考えて極当たり前のことさえ想像できていない。想像することを拒んでいるようにさえ見える。あれほど高度な精密機械や電気機器を作ることができる頭のいい人たちが、なんという単純なミスをおかすのだろう。
「木を見て森を見ず」というようなたとえ話があるけれど、我々はずっと木ばかりを見ていたのではないかな。木を見ること、木だけを見ることを奨励していたのでないかな。森には心地よい風が吹いたり、動物や小さな生き物がいて、雨が降ってそんな生命を守って育てる、何よりも人智を超えた神がいる。そんな全体を見る目が我々には欠けていたのではないかな。
悲しいけれど、前に向って進むしかない。
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