画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
→ http://enami.sakura.ne.jp
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2022/2/4
FCブログがトラブルのため
久しぶりに記事をアップ。
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引越しのご案内・・
2011 10/1より
「あそびべのはる・ここだけの日々」をとりあえずこちらの方に引っ越します。
http://asobibe.blog.fc2.com/ 皆さん変更のほうよろしくお願いします。
「あそびべのはる・ここだけの美術館」は変らず
http://enami.sakura.ne.jp
ご連絡は「あそびべのはる・ここだけのメール」変らず
http://enami.sakura.ne.jp/mailform.htm
2011 10/1より
「あそびべのはる・ここだけの日々」をとりあえずこちらの方に引っ越します。
http://asobibe.blog.fc2.com/ 皆さん変更のほうよろしくお願いします。
「あそびべのはる・ここだけの美術館」は変らず
http://enami.sakura.ne.jp
ご連絡は「あそびべのはる・ここだけのメール」変らず
http://enami.sakura.ne.jp/mailform.htm
ついでだからいままでのブログの記事をみんな一つにまとめる事が出来る「引越し機能」が付いたサーバーを見つけた。
2004年10/11(はる1211)のアメブロからの記事を一つにまとめた。まだ上手く機能が使えていないし、ここにするかどうかまだ決まっていない。一応記事を一つにまとめたと言うだけ。
http://asobibe.blog.fc2.com/
2004年10/11(はる1211)のアメブロからの記事を一つにまとめた。まだ上手く機能が使えていないし、ここにするかどうかまだ決まっていない。一応記事を一つにまとめたと言うだけ。
http://asobibe.blog.fc2.com/
はる 3745
私はこうやってパソコンに向って、さて今日は何を書こうかと考えるのが、一日の終わりのほぼ儀式のようになっている。簡単にシャメだけで済ます場合もあるけれど、興が乗れば結構真剣に考え込んでしまう場合もある。
こうやって書くことは、普通に何気なく過ごしてしまっていることを改めて自分で確認するという意味で凄く重要な仕事になっているんだなぁというのが最近の私の想いだ。絵を描くことも自分のこころの中を覗き込むような作業だけれど、絵と違って言葉はもっとストレートにつかむ事ができるように思う。
私の文章はある意味特殊な仕事を持つ人間の言葉で、いつも何か問いかけながら、ああでもないこうでもないと探り書きをしているようなもので、文章として面白いとか、楽しいとか、上手いとか、そういった類のものではない。私の今この場で考えていることをダイレクトに表現しているだけで、何の飾りもてらいもない。物を作る人間の見る目を通した文章だから興味がある人には面白く思うかもしれないな。私はほとんど読む人のことを考えてはいないので、反対に興味がない人にはカスみたいなものだろう。
少し話題を変えて
先日から考えていたことも書くことで気付いたことで、書かなければまったく見過ごしていただろう。その、クロッキーのことから始まった考察のことだ。
今日もクロッキーがあった。全く今日は筆がのらなかった。その理由は描きながらいろいろな事を考えてしまったからだとおもうのだけれど、他人からみればほとんど変らないように見えるクロッキーも毎回、その瞬間ごとに違うわけで、描いている私だけに分ることかもしれない。
絵が描ける、かけないという技術の話ではない。物が見えれば左でも描けるのだし、口にくわえてもでも、足でも描ける。ようするに、どのように観たか、解釈したかということなんだな。
このことは昨日の家の話にもつながってゆく。簡単に便利にお安くという風な事ばかりで生活してゆくと、結局生きてはいるけれど、何も観ていない、聴いていない、感じていない、生物として生きてはいるけれど、人間として生きているということにはならないのではないかな。
私はこうやってパソコンに向って、さて今日は何を書こうかと考えるのが、一日の終わりのほぼ儀式のようになっている。簡単にシャメだけで済ます場合もあるけれど、興が乗れば結構真剣に考え込んでしまう場合もある。
こうやって書くことは、普通に何気なく過ごしてしまっていることを改めて自分で確認するという意味で凄く重要な仕事になっているんだなぁというのが最近の私の想いだ。絵を描くことも自分のこころの中を覗き込むような作業だけれど、絵と違って言葉はもっとストレートにつかむ事ができるように思う。
私の文章はある意味特殊な仕事を持つ人間の言葉で、いつも何か問いかけながら、ああでもないこうでもないと探り書きをしているようなもので、文章として面白いとか、楽しいとか、上手いとか、そういった類のものではない。私の今この場で考えていることをダイレクトに表現しているだけで、何の飾りもてらいもない。物を作る人間の見る目を通した文章だから興味がある人には面白く思うかもしれないな。私はほとんど読む人のことを考えてはいないので、反対に興味がない人にはカスみたいなものだろう。
少し話題を変えて
先日から考えていたことも書くことで気付いたことで、書かなければまったく見過ごしていただろう。その、クロッキーのことから始まった考察のことだ。
今日もクロッキーがあった。全く今日は筆がのらなかった。その理由は描きながらいろいろな事を考えてしまったからだとおもうのだけれど、他人からみればほとんど変らないように見えるクロッキーも毎回、その瞬間ごとに違うわけで、描いている私だけに分ることかもしれない。
絵が描ける、かけないという技術の話ではない。物が見えれば左でも描けるのだし、口にくわえてもでも、足でも描ける。ようするに、どのように観たか、解釈したかということなんだな。
このことは昨日の家の話にもつながってゆく。簡単に便利にお安くという風な事ばかりで生活してゆくと、結局生きてはいるけれど、何も観ていない、聴いていない、感じていない、生物として生きてはいるけれど、人間として生きているということにはならないのではないかな。
はる 3744
光より早い素粒子が見つかったということだ。まだ実際は検証がすんではいないので、これからどうなるかわからない。単純に考えるとアインシュタインの相対性理論が根底から覆ってしまうわけで、そうなると宇宙は閉じられた世界ではなくなる。どこまでも無限に広がる空間というと、暗黒の世界を空想して薄ら寒くなる。まぁどちらにしても日常にはなんら影響はないのだけれどね。
隣の空き地に新しい家が建ち始めた。これが昨日まで土台が出来たと思ったら、今朝屈強の男たちが10人ばかりやってきて、大きなクレーン車が工場で作られたプラモデルのような家の断片を次々と持ち上げてあっという間に二階建ての大きな家が出来てしまった。
面白いように立ち上がってゆく様子を見ると、これは家を建てるという仕事ではなく、単に組み立てると言う仕事だと思った。それぞれは実に楽しそうにホッチキスのお化けのような物を持ってパチパチとめていた。彼らは大工さんではない。まともな大工の修行をした人間は反対に邪魔になるだろう。そんな技術などこの場では使うところがない。まぁ時代の流れであるから、どうしようもない。仕事のやり方が変ったということだ。
昔チャップリンがモダンタイムスで風刺していたのは、大きな工場の流れ作業だったけれど、今はそんな生易しいものじゃないね。実際一つ一つ最後までものづくりに関わっていけるというのはもう工芸品とか作家物しかないのかもしれないな。工場で作られた量産品か作家生産の一点物という両極端になってしまった。
効率とか利便性、経済的なことを考えると、日常生活は出来るだけ量産品を使って暮らすというのが生きてはいきやすいのだけれど、この間の話の続きのようになるのだけれど、例えば何かを観るとか聴くとか感じるというのは、ただ単に流されていたのでは出来ないことなんだ。ただ単に口に入るものを食って、そこらの量産品の服を着て、張りぼてのような家に住んでいたのでは、何を食っても同じだし、どう生きても変らないということになる。
この間の鑑賞の話とつながる。
「それで終わってしまったのでは何も観ていない、聴いていない、感じていないのと同じなのではないかな。少し前にクロッキーのところで書いたけれど、物を見るとか、感じるとか、聴くというのは「はっきり意識して聴く、観る、感じる」という姿勢が必要なのではないか。我々に抜けている、教えられてこなかったのはそういうはっきりした姿勢ではないのかな」
それが生きる、生きた、ということだ。
裸の王様のように気がつかなければそれでもいいのだけれど、何だかすこし寂しい。
光より早い素粒子が見つかったということだ。まだ実際は検証がすんではいないので、これからどうなるかわからない。単純に考えるとアインシュタインの相対性理論が根底から覆ってしまうわけで、そうなると宇宙は閉じられた世界ではなくなる。どこまでも無限に広がる空間というと、暗黒の世界を空想して薄ら寒くなる。まぁどちらにしても日常にはなんら影響はないのだけれどね。
隣の空き地に新しい家が建ち始めた。これが昨日まで土台が出来たと思ったら、今朝屈強の男たちが10人ばかりやってきて、大きなクレーン車が工場で作られたプラモデルのような家の断片を次々と持ち上げてあっという間に二階建ての大きな家が出来てしまった。
面白いように立ち上がってゆく様子を見ると、これは家を建てるという仕事ではなく、単に組み立てると言う仕事だと思った。それぞれは実に楽しそうにホッチキスのお化けのような物を持ってパチパチとめていた。彼らは大工さんではない。まともな大工の修行をした人間は反対に邪魔になるだろう。そんな技術などこの場では使うところがない。まぁ時代の流れであるから、どうしようもない。仕事のやり方が変ったということだ。
昔チャップリンがモダンタイムスで風刺していたのは、大きな工場の流れ作業だったけれど、今はそんな生易しいものじゃないね。実際一つ一つ最後までものづくりに関わっていけるというのはもう工芸品とか作家物しかないのかもしれないな。工場で作られた量産品か作家生産の一点物という両極端になってしまった。
効率とか利便性、経済的なことを考えると、日常生活は出来るだけ量産品を使って暮らすというのが生きてはいきやすいのだけれど、この間の話の続きのようになるのだけれど、例えば何かを観るとか聴くとか感じるというのは、ただ単に流されていたのでは出来ないことなんだ。ただ単に口に入るものを食って、そこらの量産品の服を着て、張りぼてのような家に住んでいたのでは、何を食っても同じだし、どう生きても変らないということになる。
この間の鑑賞の話とつながる。
「それで終わってしまったのでは何も観ていない、聴いていない、感じていないのと同じなのではないかな。少し前にクロッキーのところで書いたけれど、物を見るとか、感じるとか、聴くというのは「はっきり意識して聴く、観る、感じる」という姿勢が必要なのではないか。我々に抜けている、教えられてこなかったのはそういうはっきりした姿勢ではないのかな」
それが生きる、生きた、ということだ。
裸の王様のように気がつかなければそれでもいいのだけれど、何だかすこし寂しい。
はる 3743
今日から「こうふのまちの芸術祭」というイベントが始まって、私は既に一ヶ月も前から展示は始まっているのだが、その関係で来てくれる人もいるのかと思って夕方の一時間ほど珈琲を飲みに出かけた。上の足は私のものです。すみません。
何箇所かの展示も見たけれど、どれも何か色んな廃材を使ったインスタレーションだったり、空間や音などで今ひとつ私には興味がわかない。どうも作品というのはこれこれというものだという私の既成概念が強いためだろうな。面白いという意味では分るのだが、それで何が言いたいのとなるとそこで止まってしまう。
ここに参加している若者は各地のこういったイベントに積極的に参加している人も多く、展覧会があればそこに留まって何かしらの作品をその場にあるものを利用して展示して、終わったら片付けてまた違う場所に出かけるというスタイルをとっている。
こういった現代美術の先駆的なものにイタリアのベニスビエンナーレがあるけれど、これなどはもう百年の歴史がある。15年ほど前に一度たまたま滞在した時にやっていたので観たけれど、各国の展示場が大きな広い公園の中に点在して、そうだな昔の大阪の万博みたいな感じで観てまわった記憶がある。多くの人がぞろぞろと言った感じで展示をのぞいていて、お祭りの山車や出し物を見る感じかな、面白ければいい、楽しければいい、まぁそんなお祭りに近いのかもしれない。
まぁ考えてみると、こういったものの原点はお祭りのお化け屋敷とか、見世物やサーカスや芝居小屋などに由来して、アーティストなどと言うのは最近の話で、芸人や大道芸人、歌舞伎者、流れ者、漂泊者に近いのかもしれないな。そう考えれば彼らのやっている事の方が、私などがやっている額縁の絵より真っ当な「芸事」のようにも思う。
今日から「こうふのまちの芸術祭」というイベントが始まって、私は既に一ヶ月も前から展示は始まっているのだが、その関係で来てくれる人もいるのかと思って夕方の一時間ほど珈琲を飲みに出かけた。上の足は私のものです。すみません。
何箇所かの展示も見たけれど、どれも何か色んな廃材を使ったインスタレーションだったり、空間や音などで今ひとつ私には興味がわかない。どうも作品というのはこれこれというものだという私の既成概念が強いためだろうな。面白いという意味では分るのだが、それで何が言いたいのとなるとそこで止まってしまう。
ここに参加している若者は各地のこういったイベントに積極的に参加している人も多く、展覧会があればそこに留まって何かしらの作品をその場にあるものを利用して展示して、終わったら片付けてまた違う場所に出かけるというスタイルをとっている。
こういった現代美術の先駆的なものにイタリアのベニスビエンナーレがあるけれど、これなどはもう百年の歴史がある。15年ほど前に一度たまたま滞在した時にやっていたので観たけれど、各国の展示場が大きな広い公園の中に点在して、そうだな昔の大阪の万博みたいな感じで観てまわった記憶がある。多くの人がぞろぞろと言った感じで展示をのぞいていて、お祭りの山車や出し物を見る感じかな、面白ければいい、楽しければいい、まぁそんなお祭りに近いのかもしれない。
まぁ考えてみると、こういったものの原点はお祭りのお化け屋敷とか、見世物やサーカスや芝居小屋などに由来して、アーティストなどと言うのは最近の話で、芸人や大道芸人、歌舞伎者、流れ者、漂泊者に近いのかもしれないな。そう考えれば彼らのやっている事の方が、私などがやっている額縁の絵より真っ当な「芸事」のようにも思う。
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