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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 村松さんがブログを始めた。「心が大事」というブログだ。色んなブログやメルマガがあるけれど、彼の言っていることがいつも素直にコトリとこころに落ちるのは何故かな。難しいことを簡単な日常の言葉で語っているからかな。これからもここからインスパイアされて何かを語って行くのだろう。

 今日は「競争からのドロップアウト」について書かれていた。我々はいつのまにか人と競争することで自分の立ち位置を確認していたところがある。学校生活というのはある意味そういう競争をあおっているところがあって、あおってあおって順番をつける。学校の先生はそれが仕事だと思っている人も多いな。

 一番が居れば必ずびりっけつが居るわけで、分からなかった有象無象の事柄を目に見える、判断しやすい状態にするのが競争だとも言える。まぁそれはある一面でしかないのだけれど、それ以外に全員が納得できる基準というのはなかなか難しいだろうな。職業として公教育の教員をやるならば、ある意味そこらあたりが限界だと思う。個人の能力には色々あって一元的に決めるのは嫌だというのであれば、早々に辞めて自分の主義にあう私立か私塾をやるしかないだろう。

 絵でも同じことで、上手い奴というのはとんでもなくうまいやつというのが居る。上には上がいる。大体アカデミックな学校をでてきた人というのはそういった受験で勝ち残ってきた人たちなので、判断がそこらあたりで止まっている。上手いか下手くそか、上か下か、そんなことで判断する。

 まぁ芸というのはそういった技の良し悪しの面もなくはないので、上手い人はそれを頼りに生きて行けばいいのだけれど、ならば下手くそは生きる道はないのかといえば、どっこいここが芸の面白いところで、いくらでも生きる道が転がっている。むしろ芸の道ではこちらの方が本流で、長くはかかるかもしれないが面白い物が出来る可能性があるようにおもうな。

 このことはもう少し書きたい。



 
 これは何枚あるのか、全部で何枚と一応数えて始めた。けれどやっているうちに諦めたり、つぶしたり、もう見たくもないので横にはねているやつなどが出てくるので、総数は分からない。まだまだ仕上がりには遠いけれど、大体全てのものに何かしらの手が入っている。一つ取り上げてコチョコチョやり始めると、他の作品が「こっちにも手を入れてよ」と声をかけてくる。だからまたそちらに、こちらにと落ち着かない。一つを何時間もこね繰り返しているということはない。すぐに飽きる。

 色を塗るのも綺麗に隅からすみまできっちりと塗るのは不得意だ。そんなに集中したくない。適当にフンフンと鼻歌まじりでやる方がむいている。これは芸術だから・・とも思っていない。筆も絵の具もいいかげんなものだ。筆は生徒が捨てて置いたものや、近くのホームセンターの塗装コーナーの刷毛だったり、障子を張る時ののり刷毛だったりする。こだわりというのが少ない。・・こだわらないというのがこだわりかもしれない。

 一生定職に就かないなどと偉そうなこと言ったけれど、実のところ飽きっぽくて同じことが続けられないだけじゃないのか・・。



 
 今年は長雨で八月に入っても夏らしい天気が少ない気がする。もうお盆も過ぎた。まだまだ暑いけれど、朝夕は少し過ごしやすくなってきた。上のような入道雲も少ない。子供頃は空を見上げる事が多かった。野原が多かったのか、寝転がって空を見上げて飽きるまで流れる雲を見ていた。



 
 今日は地域のお祭りで盆踊りをやっている。しかし、何処となく寂しいのは私が歳食ったせいなのかな。屋台が出るのだけれど、これも皆地域の町内会の連中が順番でやっている。まぁだから安いし、安全なんだけれど、お祭りの屋台って何処からとなく集まってきたテキヤの親父の口上が面白かったりしたんだな。がまの油売りとか、見世物とか、どこか怪しげな雰囲気にワクワクしたものだ。これもまぁ自分が子供だったからなのかな。どこか健全になってしまうと「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という感じで、御まじないもきかない。こんなものもどんどんなくなって行くのだろうな。

 話は変わって、少し前に突然「北海道の珍味屋でぇーす」とか言って行商してあるいてお兄さんがいて、何とも不思議な奴がいるものだと話題になったことがある。詳しいことは未だに不明なんだけれど、どうやら新手の新興宗教の活動資金になっているという風なことを聞いた。嘘か本当か分かりませんが・・。でつい最近突然「○○珍味」というのが送られてきた。それも結構たくさんの海産物の干物である。送り主に憶えはない。冷凍庫は一杯でまぁ無理すれば半分くらいは入るのだけれど、あとはご近所に配って食べてもらうしかない。

 で、ちょっと困った。知らない人からの食料品を配って、もし、事故があったら責任とれないなぁ・・。これって新手の詐欺なのか、はたまた新興宗教の勧誘なのか、とすったもんだして結局どうしたと思いますか?

 まぁわかってしまえば笑い話なんだけれど、ネットで「○○珍味」を検索。でようやっと送り主の見当がついたというわけだ。これってやっぱり何か一言添付しなければ、怖いですね。時代が何でもむやみに信用できる時代ではないのでね、特に食品は。



 
 私の絵は何処までが地塗りか分からない、仕上がったと思った作品も数日経てばその上に新しい作品が登場する場合もある。だから手元にあるうちは終わりがないと思った方がいいかもしれないな。これもいつのまにかこんな描き方になったわけで意識してこうしようと思ったわけではない。

 気をつけていることは一つだけだな。これが上手く説明出来ないのだけれど、やってみる。

 例えば今日の仕事が終わったとするとその時点でその絵は一応何らかの形で完了している。無論途中なんだけれど、途中なりに終わっていなければならない。いつも「全体の中の部分」を意識しているということかな。

 話はまた少し飛ぶけれど、宇宙の構造はフラクタルだという話を書いた。自己相似形、簡単に言えばツルの渦巻きと星雲の渦巻きは同じ原理で出来ているといったこと(これは私の推測で証明されたことではないので人には言わないように)全体と部分は同じ原理で出来ているということだな。

 パネルという一つの閉じられた空間だけれど、これは宇宙と同じだと考える。ここにも大宇宙と同じ原理が存在している。そこからは逃れられない。何か分からない混沌としたものだけれど、画面全体としてはプラスマイナス0の均衡を保ってなければならない。

 「いつも始まりで終わっている」そんな描き方が出来ればいい。



 午後の光
 今朝は5時ごろ地震で起こされた。震度4ということだから、私が体験したなかでは結構大きい方だ。家が古くてぼろいので壊れないかそれだけが心配だ。最近の耐震設計だったり、ツーバイフォーならほとんど心配することもないのだろうけれど、特にアトリエなど和室六畳を二つくっつけたような自己流の改造なので、構造は非常にもろいでしょ。

 住むことは、食べること、装うこと、と同様に大切な人生の要素だと考える。無論いくらでもかけられるだけの贅沢をしろというのではない、今あるだけの材料で出来うる限りの贅沢(手をかけたり、時間をかけたり、慈しむこと)をして楽しもうというわけだ。ここらあたりがスローフード、スローライフのコンセプトと重なるところだな。

 お金があれば楽しく生きられるか?といえば必ずしもそうではないということが、そこそこ分かってきたはず。楽しむすべ、面白がるこころがなければ何をやっても楽しめないのだな。要するに何度もいうけれど、面白いという眼を養うことだ。

 家を自分で建ててしまう人たちがいる。一時ハンドメイドハウスに憧れた。山奥に行ってそこにある木を材料に柱を作って泥をこねて壁を作ってという風な家に住みたいと模索したこともある。それも一つの方法だけれど、家を作ることが最終的な自分の夢でもないなぁと思ったんだな。

 どちらかといえば家は自分の生活の手段というのか道具というのかな、そこを使ってどう生活を作って行くかということが目的なんだな。だから色んなことを考えると、今は町中を離れられない、で町中に適当なボロヤを手に入れて自分なりに改装して楽しめれば善しとした。これがまぁ折衷案だったわけだ。今でも間違っていなかったとは思っている。

 閑話休題
 ある女優が死後二週間たって発見されて、「かわいそうな晩年」「孤独死」などと騒がれている。テレビや新聞さえ見ないのだけれど、こういった情報は自然に入ってくるものだ。

 「野垂れ死」というのが理想てきだなとは思っている。借金背負ったり色んなところで迷惑かけるなら別だけれど、誰にも知らせず知られずひっそりと消えて行くのは理想的じゃないかな。よく芸能人で癌を告知して大々的に芸能人として亡くなる人もいるけれど、どうなんだろう?どう死ぬかというのはどう生きるかということと同じことで、ああしろこうしろ言われたくない。

 まぁ彼女がどう思っていたのかは知らないけれど、最近見ないと思ったら亡くなっていたという方が自然ではなかろうか。一人で生きて行くと決めたことはそういうことだろうと思う。
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