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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3051
 「般若心経6」
 「美は混沌にあり」これは新しい概念だな。ここのところ考えていることにぴたりと当てはまる。「美は発見である」というのが私の今までの考えだった。思えばこれはもう十年も変わらない考え方でね。まぁ今も基本的にはその立ち位置は変わらないのだけれど「美は混沌にあり」の方が本質的な気がする。

 「美は発見である」というのはどこから来たのかといえば、よく「絵なんて好き嫌いでいいじゃないか」といわれる。そういわれて、確かにその通りなんだけれど、どうも何かしっくり来ないものがある。子供が好きというのと大人が好きというのではどうも違うのではないかと。本当に「好き嫌いだけ」なのかなとね。

 何でもそうなんだけれど「人は自分の身の丈にあったものしか理解できない」幼稚園生にいくら正しくても高等数学は理解できないだろう。それと同じでいいか悪いかはその人次第、その人のレベル次第というところがあるな。だから、まぁ「これが好き」といえば簡単にいえばその程度の人間だということかな。

 ところがね、ここのところが難しいところなんだが、例えばピカソは子供が見て面白いと思わないか、興味を示さないかと言われればそんなことはないんだな。本物というのは実は子供から大芸術家まで満足させる多くの引き出しを持っているということなんだな。ある程度の教養のある人しか分からない美というのは、まだまだ本物じゃないと言うことじゃないかな。

 ドゴン族のお面とか扉とか鍵とか家そのものも面白い。朝鮮の民芸とか日本の古い猿楽のお面とか、神楽のお面や奉納物なんどもおもしろい、初期の仏像なども面白い。当時の人が特に教養があって美の何たるかを理解していたとか考えていたとは思えない。そういった価値はまぁこちら側の物差しであってね、彼らは「美(うつくしい)」とか「信仰」「道徳」などという概念も無かったように思う。あったのはただ「いい」ということだけだったんだろう。

 この「いい」という概念も様々だ。「美」とかいて(よし)とも読む。「善」も(よし)だし「儀」も(よし)、だし「良」「好」もよしだ。「よし」というのを調べてみるとこれまたなかなか面白いように思うな。

 ある時、ある場所では「よい」であっても時空が異なれば「悪い」になるのであれば、それは普遍性が在るとはいえない。もっと違う概念、普遍的な考え方がないものかと探っていた。

 ところで、また般若心経に戻ってみる、
「「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」

 「いい」「わるい」の判断を超えたところに真実があると言っているきがするなぁ。「いいもわるいもない」と言ってしまえばそうなんだけれど、「いい」にこだわって「わるい」を排除すると、いつかまた排除される側になる。

 壊れた物はさらに壊れることはない。死んだものは再び死ぬことはない。なくなった物は二度なくなることはない。正しいものはいつか正しくなくなるかもしれないけれど、元々いいも悪いも無いものは永久にいいも悪いも無いという禅問答だ。

 統一された、これしかない、唯一のというものほど危なっかしいものはない。明日から保身にまわらなければならない。

 「美は混沌にあり」
 
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はる 3049
 今日は久しぶりのチェロのレッスン。もう何年もチェロは触っているけれど、いっこうに上手くはならない。これは全く謙遜ではなく、弦楽と言うのは恐ろしいほどいい音を出すのは難しい。例えばピアノやギターというのは誰が弾いてもドはドの音がする。まぁ強弱はあるのだろうけれどね。ところが弓で弾くヴァイオリンとかチェロみたいな物はフレットがない。だから最初っから音は不安定である。自分の耳で決めて行くようなところがある。

 しかし、大人になって始めた我々のような素人はなかなかその音程が定まらない。絶対音感みたいなものがない。だからフレットに変わる物としてバンソウコウを貼ったり印をつけたりするのだが、これを見て指を確認して弾いて行くというのはスタイル的に格好が悪い。この指を気にしていると右手の弓のほうがお留守になってなんともはしたない音がしたりする。

 それから独学で何年もやっていたので、そこそこの曲なら弾けてしまう。それがまた問題で、弓や指の押さえ方などがてんでいいかげんで、変な癖がついてしまっている。これも厄介だ。直らないのだ。

 曲を弾くつもりは無い。教則本のようなもので最初は弾けなかったものが段々に曲としてつながってくると面白い。

 



 
 ↑は今描いている作品の一部です。こんな陶器の窯変のような絵肌が好きですな。これはまぁ私が描いているにもかかわらず、私の力ではありません。作ろうとしてもできませんね、私は見つけただけなんだな。ただこれも今だけ存在する美で描いているうちに消えてしまう運命にある。これにこだわっているとつまらない絵になってしまう。

 無意識と意識のはざ間に素晴らしい瞬間がある。全体的に無意識にポット出来てしまったというふうなのがいいように思うな。なんとかそこらあたりに近づきたい。
はる 3048
 随分と寒くなった。少し前は虫もないていたけれど、今晩あたりは寒さに震えているのだろうかね。

 額の注文を9月の末にした話は書いたかな。何の音沙汰もないので少し心配なので確認の電話をする。額を作る業者が外国で日本の技術者が出向して作っている。日本製と昔は質に圧倒的な差があったけれど、今はもう変わらない。だから人件費の安い外国に工場が出てしまうのは経済の理論で行くと仕方ないのかもしれない。が利用者の側の立場でいえばすこぶる不便である。

 納期をはじめとして納期の打ち合わせなどが厄介である。注文してから6週間かかる。時間がかかりすぎる。いざと言う時に役に立たない。

 今はまだいい。技術が外国に出てしまえばそのうちに真似されて乗っ取られてしまうだろう。もっと大きな問題は、やがて日本人は何も作れなくなってしまう。これは額だけの話ではない。

 



 
はる 3045
 「般若心経5」・・・眠いので目茶苦茶です。とりあえずここまま載せます。

 HPを立ち上げたころ、青山次郎の「美は発見である」というのが凄く新鮮で目新しく、そのときに考えていた事柄とぴたりと一致した。それ故に私のホームページのメインのところに掲げている。見る人はその人のレベルでしか見ることが出来ない。だからいいと思ったのはその人が新しく発見した美だということが出来る。そのことに全く異存はない。

  けれど「美は混沌にあり」ということになれば少し違うなぁと感じている。

 そうだなぁ、例えば美術史を勉強する、中世があってやがてルネサンスがあって、バロックの時代があって、古典の時代がきて印象派ができて、現代があるみたいに何かしら理由があって、時代が変わって行くように理解する。学問とか知識というものはそうやって分けて「名前をつけて」分類して行くことだ。

 まぁ普通に勉強して行くと魔法にかけられたように全ての人がそれが正しい唯一の道のように考えるわけだ。確かに、たしかにそうやって人類は色んなものを理解してきたし、効率よく人間に役立つように世界を環境を利用してきたわけだ。

 まぁ世の中の価値というものの体系を作ってきて秩序立てたといってもいい。それが今現在の我々の姿だ。

 「美は発見だ」「これが一番だ」というのであれば結局AがBになっただけで本質的に何ら変わりは無い。根本的な変革ではない。五十歩百歩。いつかはまた新しい価値に取って代わられてしまうだろう。子供が陣地を取り合いしているようなものだ。

 規則のあるものは不規則に、秩序あるものは無秩序にさらに混沌とすすんでゆく。なぜならそれが一番安定しているからだ。

 ところでそれでも宇宙が崩壊せずに存在するのは、ある意味の「無秩序な秩序」というのがあるからなんじゃなかな。それが何なのかよくわからないのだけれど、多分「言葉にできない」「意識されない力」「潜在的な力」であるきがするな。

 宇宙のある部分をとれば他と全く違うように見えるけれど、ある程度の広さで捉えると、それはずいぶんと似通ったものになる。それは例えば地球と太陽では全く違う星である。けれどもっと大きく太陽系と他の系でみてみればどちらも同じような構造を持つことが分かる。

 何もないところと、星たちが集まっているところがあってとても均質であるとは見えないけれど、もっと大きな範囲で捉えれば結局その内容は大きく違わないということがわかる。

 ある場所だけみてそこの構造や組成だけで宇宙を語った気になるのが我々なんだけれど、実はそれ以外のところでは例外だらけでそんな秩序は無かったりするわけだ。

 美術史やスタイルだけでその時代を統計立て考える違うのではないかと思う。世界はもっとアトランダムで混沌としている。

 それが多分正解だ。何を言っているのかわからん。
 
 



 
腹が立つのでもう一回しつこく書きます。

騙されないために
法務省民事局
督促手続・少額訴訟手続を悪用した架空請求にご注意ください
************************
・・略
Q1裁判所からの本当の通知かどうかを通知の形式から見分けることはできますか。

(答)1裁判所から「支払督促」や「少額訴訟の呼出状」が送られる場合には,「特別送達」という特別な郵便(郵便法第66条,内国郵便約款第138条)により送付されることになっています。
 この「特別送達」には,次のような特徴があります。
○「特別送達」と記載された,裁判所の名前入りの封書で送付されてきます。
 ※ 「支払督促」や「少額訴訟の呼出状」が,はがきや普通郵便で送付されてくることはありません。
○郵便職員が名宛人に手渡すのが原則であり,はがきや普通の封書のように郵便受けに投げ込まれることはありません。
 そして,郵便職員から受け取るときは,「郵便送達報告書」(このような書式です。)に受け取った人の署名又は押印をするよう求められます。
○裁判所で付した「支払督促」や「少額訴訟の呼出状」の「事件番号」・「事件名」が記載されています。

 これらの特徴があるかどうかで,裁判所からの本当の通知であるかどうかを見分けることができます。
 2なお,本当の「支払督促」には,金銭を振り込む預金口座は記載されることはありません。したがって,受け取った書類に振込口座の記載がされていた場合には,それは「支払督促」ではありませんので,絶対に金銭をその口座に振り込むことのないようにしてください。なお,名目のいかんを問わず,裁判所から「お金を振り込むように」という連絡が来ることもありません。
 3発送元・連絡先が本当の裁判所であるかどうかについては,電話帳や消費生活センターなどで確認しましょう。なお,裁判所の管轄地域・連絡先については,最高裁判所のホームページでも確認することができます

http://www.moj.go.jp/MINJI/minji68-3.html



 
 それにしても腹立つなぁ、一時にしてもあせった自分が恥ずかしい。住所などどこからでも漏れるのは仕方ないかもしれないけれど、人間なんて簡単なものだ、騙される方が悪いんだといった態度が見て取れるから腹が立つ。相手の電話番号が特定されているのだから取り締まる方法はあるのじゃないか。もしネットがなければ電話していたかもしれないしなぁ、本当に馬鹿にした話だ。

 一つは、随分昔に似たような話があったので、今回もそれに類したことかと思ったわけだ。学生の頃の友達の話だが、親戚のおじさんが借金を抱えたまま亡くなったらしい。親戚と言っても全く付き合いも無い、会った事も無いほとんど他人のオヤジだったらしいのだ。で、問題は借金も相続されるということで、親戚中に御触れが回って、法律に詳しい人が弁護士をたてて「一切を放棄する」という証文を回してきたそうだ。期日がこれもあって裁判所からの正式なものだったらしいので、これはまぁあせるわな。早急にやらんと大変な損害をこうむることもありえるわけだ。そんなことを身近に見ていたので、今回の話も実際ありえるかなと思ったわけだ。全く知らないところで、借金を負わされると言うこともあるらしいのでね。

 まぁ、実際はこんな剥き出しのはがきで来るわけはないし、はっきりと裁判所の名前が書かれているので、冷静にみればどこかおかしいと気がつくわけだけれど、ネットが使えない年寄りとか、障害があるひととか、そういった人にも当然無差別に送っているわけで、で、ついついひっかかってしまうのはそういった人たちなんだろう。本当にあわくってあせって電話してくる、それを手玉にとって騙すわけだ。笑い事じゃないなぁ・・。

 そうやって稼いだお金は身につかないだろうな。お金にも「スローなお金とファーストなお金」があるらしい。手っ取り早く稼いだお金はあぶく銭といって、入ってきたと同じようにさっさと消えてしまう。それに比べてゆっくり手間ひまかけて稼いだお金は、それ以上の経験や喜びをもたらしてくれるというわけだ。まぁそんなこといってもそいつらには馬の耳に念仏だろうがね。悔しいのでもう少しこき下ろそう、それぐらいしか出来ないのでね。

 何でもいいから、手段を選ばず、文字通り人を騙してでも稼ぐというやり方は、結局人生とはそういったものだという人生観になってしまうのだろう。誰も信用できないし、お金が全てという考え方になってしまうのだ。これは仕事だと全く良心が痛まないなら、その人は大物だ。

 くそ、これじゃけなしたことにならんな。


 日本管財事務局という財団から下記のような通達が来ました。

********************
「民事訴訟裁判通達書」
この度、通達いたしましたのは被告に対する民事訴訟裁判開始の通達です。原告に対しての契約不履行につき原告側が提出した訴訟状を指定裁判所が受理したことを通知いたします。「裁判取り下げ期日」を過ぎますと、指定裁判所から出廷命令通知が届きますので、記載期日に出廷していただきます。出廷拒否されますと民法(民事訴訟法)に基づき原告側の全面勝訴となり裁判終了後には、財産調査を経て動産物・不動産物の差し押さえ及び給与、金融機関口座の凍結を裁判所執行官のもと強制的に執行いたします。
以上を民事訴訟裁判通告とさせていただきます。尚、書面通達となりますので個人情報保護のため詳細は当局までご連絡ください。
※ご連絡なき方には、勤務先等へ郵送する場合もございますのでご承知ください。
裁判取り下げ期日 平成21年10月19日
〒104-0042 東京都中央区入船1-1-**
日本管財事務局
03-3505-58**
電話受付時間 9:00~19:00
(土日祝を除く)
**************************
 ネットは便利ですね。何となく不信感があったのでグーグルで調べてみました。けっこう有名な詐欺集団のようです。あわてて電話しないように。

 期日が微妙に近いので慌てて電話すると、知り合いの弁護士という仲間を紹介されて、今回は50万円で示談みたいな話になるそうです。少し冷静になって考えるとおかしいと分かる気がしますが、はがきが来たすぐには判断がつきませんね。騙されそうです。



 
はる 3042
 般若心経4
 形あるものは必ず崩れて行くし、秩序あるものは放っておけば無秩序な混沌に向かうというのは科学ではすでに証明されていることらしい。「エントロピーの増大の法則」

 自然界を眺めていると水は高いところから低いところに流れて行く。何か他からの力が働かない限り逆に流れることはないわけだ。で、一番低いところが海抜0mで海というわけだな。まぁそこから水蒸気なってまた循環したり、一部は水素た酸素の分子や原子になって他の生物の体を作ったりするんだろうけれど、水という観点だけで考えると海にたどりつくというのが一番安定しているわけだ。

 たとえば冷蔵庫などに蓄えられているペットボトルの水なんかも、そこにある間はまだまだ不安定なんだな。最終の場、一番安定しているところと言うが海だということになれば、エントロピーは小さい。で飲むとか流されるされてどんどんエントロピーが大きくなってゆくというわけだな。

 ちょっと例が良くないな。

 いずれにしろ、規則正しく並んでいたり、秩序だって序列があるというのは不自然であって、安定はしていない、いずれは混ざり合ってグジャグジャになって行く。それが一番安定していると言うことらしい。

 何となく分かっていたことだけれど、明確にきっぱりと言われると目からうろこだな。あぁそうなんだ、混沌こそが安定した状態なんだってね。妙に納得した。

 ところでまた般若心経に戻って、この文章を眺めてみる。
「「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」

 人は物事にしても、心の中にしても、分かりたい理解したいと分けて分けて、分類して、秩序立てて、いっぱい勉強してきたよな。それがまぁ心の中を知る方法だと思っていたし、心の安定が欲しかったから、理解しようとやって来た。

 でもねぇ、そうやって秩序だてることが、理解できた、分かったとすること自体が間違っていたということじゃないかな。

 まだ未消化だな。つづく・・。

 
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