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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 シャメとブログというのは昔の絵日記のようだな。一応今日は何をシャメするか?ということを頭の中にインプットしておかないと忘れてしまう。忘れてしまって何もない時はアトリエの風景でもシャメする。文章は後で考える、というのかまず何かを書き始める。書きながらおおそうだそうだと修正したり、付け加えたりする。この方法だと何も書くことがなくても、次第に芋づる式に文章がつながってゆくと言うわけだ。

 時々本を読んだり、新聞を読んで感じたこと、今日はこれをテーマにして何か考えてやれと言う時はどこかにちょこっとメモしておく。これも旬があって大体24時間以内に書かないと意欲が薄れる。だからこれはネタになるからといって取っておいてもだめだね。ネタが古いまずくなる。絵とおんなじだ。旬が大事だ。

 こうやって10年続ければ相当文章がストックされる。いや同じようなことを何度も何度も反芻している牛のようなので、面白いかといえば面白くないかもしれん。つたない文章で情けなくもある、でも知ったことではない。そんなことのために書いているのではないからね。まず自分が書くことが、考えることが好きだ、ということだ。誰かに強制されれば、これほど苦痛な修行はないだろうな。ないものをいくら探って書けない。

 例えばここに鉛筆一本転がっていても、なぜここに鉛筆があるんだということを考えてゆくと、誰かがどこから持ってきたわけだ、それはもらったものか、買ったものか、いつ買ったんだとか、それなりの来歴が綴れるわけだ。

 ものというのは自然には集まってこない。必ず何かしらの理由があってそこにやってくる。そう考えると、身の回りにあるものが、すなわち仮の自分の姿でもあるわけだ。なんだかんだと言いながらも毎日、毎時、この一瞬一瞬選択しているだな。

 今日の格言「集まったガラクタは自分自身」
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 公募展なんかでもそうだけれど、コンクールの功罪でよく言われるのが「射幸心」って言葉。で、射幸心をもつことはいけないことのように書かれていることがよくわからなかった。まぁ言葉の意味の元々はギャンブルの努力もせず単に偶然で一攫千金を狙う心構えをいうのだけれど、どうもいいやら悪いやらがよく分からない。

 若い頃に多くのコンクールに出品したのは、世の中に出る方法として、一番要領よく注目を集める方法はコンクールで大賞を取る事だということが書かれていた雑誌を鵜呑みにしたところもある。学歴も画歴もほとんどないような若造が、普通にまじめに地方で絵を描いて個展を開催すると言うだけではなかなか注目されないだろうと考えた。時代はバブリル真っ最中で色んなところで冠の着いたコンクールが開催されていた。で、手当たり次第にコンクールに出品したのはそういったわけだ。

 今なら「射幸心」の意味も分かる。例えばたまたま偶然に幸運なことに一等が当たったとしよう。絵画のコンクールはくじやバクチではないので、当たったという言葉は本当は間違いなんだけれど、コンクールで大賞を獲得する幸運は限りなくバクチに近いものがあるし、偶然の左右することも大いにあるわけだ。

 たまたま当たってしまうと、時に勘違いをおこす。芥川賞や直木賞を取って二三年大騒ぎして消えてしまった作家は何人いるだろうか。もちろんそこから運命を切り開いて押しもおされぬ大作家になった人も大勢いるのだが、絵画の場合ほとんど消える確立の方が大きい。運命のきまぐれで人生を踏み外してしまうのだな。

 まぁそのことを肝に銘じて、そのことに翻ろうされずに、反対に武者修行ぐらいのつもりで利用すれば適度なモチベーションの維持にも役に立つのでいいところも大いにあるな。 

Bach's Cello Suite No. 6 - Rostropovich

 

 
 篠田節子の「ハルモニア」という小説を読んだ。知らなかったのだが、ハルモニアにはこんな意味があった。以下あとがきより
「・・『天球の音楽」とは大宇宙が調和を保ちながら壮大な音楽を発しているという、数学と音楽と真理とが結び合わさったファンタジーのことであり「ハルモニア」とは宇宙の奏でる調和に満ちた音楽そのもののことである。ピタゴラスがつむぎだしたというこの音楽の幻想は、ヨーロッパの音楽の展開に極めて大きな影響を与えた・・」

 なかなか面白いというのか、いつも考えていたことが全く新しいことではなく、そっくりそのまま紀元前から考えられていただなんてショックだなぁ・・。この小説の主人公は脳に障害のある女性なんだけれど、まぁそのために特殊な音楽的な能力を持ったという設定で話は進んでいく。それはそれで納得できるのだが、話が超能力のエクソシストのようになるのがどうもいまひとつだった。

 で、その中で主人公はチェロ弾きなんだけれど、クライマックスで↑のバッハの6番を弾く。これは超絶技巧だな。ロスロポービッチ爺さんの感動的な演奏をきいてくださいな。

 
 アーチストなど何だかよくわからない。職業でもないし、肩書きでもない。久石譲ではないけれど芸術家にはすぐになれる、「私は芸術家です」といえば明日からでもなれる。「あいつは芸術家だからな」といえばやや非難めいたニュアンスが含まれている。ろくでもないガラクタを作りやがって・・というような。

 私の20代などそこらに生息している野良犬のようだった。目標など何も見えず、闇雲に歩き回って頭をぶつけている盲人のようだった。今描いている絵が芸術だとも思えなかったし、これを続けていけば何とかなるとも思えなかったし、はたして自分は絵描きになりたいのか、それさえよく分からなかった。

 本当のこと言えばつい最近まで、人様に自分のことを「絵描き」などというのがはばかられた。それほど売れていないということもあるけれど、人が汗水たらして働いている日中にフラフラしているのは申し訳ないようなそんな心もちがあったね。結局遊びの延長みたいなものだから。農耕民族の生真面目さが少しは残っているんだろうな。
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