画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
→ http://enami.sakura.ne.jp
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
はる 3523
ブログを読んでいたらなるほどと思うことが書かれていた。以下は要約して書いてみる。
作家の種類
「画壇作家」・・絵描きの中ではエリートである。ただしその構成員になるには多大な努力をようする。学閥、門閥、地域閥、師弟閥が大手をふるう。学校の先生や大学の先生、カルチャーの講師など肩書きで仕事をするタイプには都合がよい。購入者はその教え子や、その非構成員がほとんどである。
「芸能人作家」・・実力はほどほどでよく、一世を風靡した芸人がその峠を越えたころからにわかに趣味的に描き出したもの。誰が見ても分かる写真のような絵が多い。購入者は昔のファンであり、現在のファンでもある。
「現代美術作家」・・何だかよく分からないけれど、世界的にブームを自ら作ってそれに乗ってマネーゲームのように売る、売れる作家。一時のジャパンマネーが西欧の名画を軒並み買い占めたように、今はチャイニーズマネーが若い作家を青田買いする。
「画廊付作家」・・画廊のオーナーの独断と偏見で選んだ作家のみを企画している画廊に巣食う作家。購入者は作家のコアなファンではあるが基本的にオーナーのファンでもある。相乗効果でいい時にはいい夢を見られる。
「デパート作家」・・大体が毒でも薬ないインテリア絵画である。「細かく、綺麗、分かりやすい」購入者は不特定多数
ブログを読んでいたらなるほどと思うことが書かれていた。以下は要約して書いてみる。
作家の種類
「画壇作家」・・絵描きの中ではエリートである。ただしその構成員になるには多大な努力をようする。学閥、門閥、地域閥、師弟閥が大手をふるう。学校の先生や大学の先生、カルチャーの講師など肩書きで仕事をするタイプには都合がよい。購入者はその教え子や、その非構成員がほとんどである。
「芸能人作家」・・実力はほどほどでよく、一世を風靡した芸人がその峠を越えたころからにわかに趣味的に描き出したもの。誰が見ても分かる写真のような絵が多い。購入者は昔のファンであり、現在のファンでもある。
「現代美術作家」・・何だかよく分からないけれど、世界的にブームを自ら作ってそれに乗ってマネーゲームのように売る、売れる作家。一時のジャパンマネーが西欧の名画を軒並み買い占めたように、今はチャイニーズマネーが若い作家を青田買いする。
「画廊付作家」・・画廊のオーナーの独断と偏見で選んだ作家のみを企画している画廊に巣食う作家。購入者は作家のコアなファンではあるが基本的にオーナーのファンでもある。相乗効果でいい時にはいい夢を見られる。
「デパート作家」・・大体が毒でも薬ないインテリア絵画である。「細かく、綺麗、分かりやすい」購入者は不特定多数
PR
はる 3522
大石正巳のアトリエ日記より勝手引用
http://laseine38.exblog.jp/15919051/
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
略・・
香月さんといえばご存知シベリアシリーズ。独特のマチエールのである。
学生さんが質問したと・・・・・
「聞きたいんか」と。
日本画の材料と絵の具の白と黄土色。それに木炭をすった粉を入れて
いっきに描き上げたと。見ていてもわからんからやってみろ、ということ
でやってみたらみんなが香月さんと同じものが出来たと・・・・・
そして・・・・
「安い材料で、早い時間で、高い絵を描けよ」と、いったらしい。
これは、野見山暁治が語る 「眼の人」 北里晋著 弦書房出版からの引
用である。
略・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大石正巳のアトリエ日記より勝手引用
http://laseine38.exblog.jp/15919051/
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
略・・
香月さんといえばご存知シベリアシリーズ。独特のマチエールのである。
学生さんが質問したと・・・・・
「聞きたいんか」と。
日本画の材料と絵の具の白と黄土色。それに木炭をすった粉を入れて
いっきに描き上げたと。見ていてもわからんからやってみろ、ということ
でやってみたらみんなが香月さんと同じものが出来たと・・・・・
そして・・・・
「安い材料で、早い時間で、高い絵を描けよ」と、いったらしい。
これは、野見山暁治が語る 「眼の人」 北里晋著 弦書房出版からの引
用である。
略・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はる 3521
今年の個展でよく聞かれた感想は、DMの写真と実物では全く印象が違うということだ。写真はあくまでも参考程度のもので、実物とは違うものだと考えた方がいいように思う。広く世の中に宣伝したり流布する場合、写真にしろネットにしろ、とにかく複製を大量に配らなければならないわけで、最近はぼちぼちネット上に案内を載せるというのが有効になってきた。
二年ほどまえに自分の小さな画集を作ったのだが、昔のように一枚一枚アナログのフィルムで撮るのではなくデジタル情報としてパソコン上で処理してそのままメールに添付した形で印刷にまわす。まぁ最近のDMもほとんどがデジタルで情報交換が昔と比べて格段にスムースになった。
ネットが便利だと思うのはグーグルなどの検索機能で、何か調べ物をする場合これほど有効なものは今までなかった。ネットにつながることで世界中の百科事典を手に入れたようなものだ。これによって多分多くの商売の仕方が変ってきたのではないだろうか。倉庫とネットさえあれば店舗を持つ必要がないので、どんな田舎でも新しい商売が出来る。私もご多分に漏れず何回か利用させてもらった。お店にオーダーするよりも何倍も早くスムースに物品を手にすることができた。
話は戻るのだが、便利と言う尺度で判断すると、仮想物→印刷物→実物という順番だが、反対に存在感という尺度で考えると反対になる。
古今東西、未だに残っている絵画とか彫刻、建物などはほとんどが名もない民衆の「いのりのかたち」で、反対に言えばそれ以外のものは跡形もなく消えてしまってほとんど存在しない。
人が動物と違うのは「自らは死ぬ存在である」ということを知っていることで、どんな民族、人種であってもそれを知って「おおいなるもの」の存在を意識する。
絵画に限らないだろうけれど、そこのところを踏まえていれば、たぶん電脳社会と我々のようなアナログの絵画表現とも両立できるように思うのだが、どうだろうか。
今年の個展でよく聞かれた感想は、DMの写真と実物では全く印象が違うということだ。写真はあくまでも参考程度のもので、実物とは違うものだと考えた方がいいように思う。広く世の中に宣伝したり流布する場合、写真にしろネットにしろ、とにかく複製を大量に配らなければならないわけで、最近はぼちぼちネット上に案内を載せるというのが有効になってきた。
二年ほどまえに自分の小さな画集を作ったのだが、昔のように一枚一枚アナログのフィルムで撮るのではなくデジタル情報としてパソコン上で処理してそのままメールに添付した形で印刷にまわす。まぁ最近のDMもほとんどがデジタルで情報交換が昔と比べて格段にスムースになった。
ネットが便利だと思うのはグーグルなどの検索機能で、何か調べ物をする場合これほど有効なものは今までなかった。ネットにつながることで世界中の百科事典を手に入れたようなものだ。これによって多分多くの商売の仕方が変ってきたのではないだろうか。倉庫とネットさえあれば店舗を持つ必要がないので、どんな田舎でも新しい商売が出来る。私もご多分に漏れず何回か利用させてもらった。お店にオーダーするよりも何倍も早くスムースに物品を手にすることができた。
話は戻るのだが、便利と言う尺度で判断すると、仮想物→印刷物→実物という順番だが、反対に存在感という尺度で考えると反対になる。
古今東西、未だに残っている絵画とか彫刻、建物などはほとんどが名もない民衆の「いのりのかたち」で、反対に言えばそれ以外のものは跡形もなく消えてしまってほとんど存在しない。
人が動物と違うのは「自らは死ぬ存在である」ということを知っていることで、どんな民族、人種であってもそれを知って「おおいなるもの」の存在を意識する。
絵画に限らないだろうけれど、そこのところを踏まえていれば、たぶん電脳社会と我々のようなアナログの絵画表現とも両立できるように思うのだが、どうだろうか。
はる 3520
昨晩は朝から雪が降った。甲府は北国のイメージがあるのか雪はどうですか?とたまに聞かれる。寒いのは毎日全国でも一二を争う極寒の地ですが、雪は年に二三度降っては10cmぐらい積もる程度だ。今回の雪も重い雪で日中はほとんど解けてしまった。
樋がつぶれて雪解けの水がポタリポタリとたれていた。壁が濡れるのを嫌って少し流れをよくすればいいと考えて、脚立にサンダル履きで乗った。そこまでは覚えているが、すーと身体が斜めになって気がついたら側溝にはまっていた。したたか胸を打った。脚立に登る時に妙な予感がした。退職した先生が庭木の剪定をしていてそのまま倒れて下半身不随になったことなどが、ちらりと頭によぎった。それでやめとけばよかったんだけれどね。
夜になって少し痛む。心配になって、救急病院でレントゲンを撮って診察してもらうことにした。何事もなければそれでいいし、悶々と心配するよりいいだろう。幸い右手は使える。
シップと痛み止めをもらう。とりあえず骨には異常がないということで、このまま時間と共に痛みも取れるでしょうということだった。ということの顛末でした。みなさん脚立には気をつけましょう。
昨晩は朝から雪が降った。甲府は北国のイメージがあるのか雪はどうですか?とたまに聞かれる。寒いのは毎日全国でも一二を争う極寒の地ですが、雪は年に二三度降っては10cmぐらい積もる程度だ。今回の雪も重い雪で日中はほとんど解けてしまった。
樋がつぶれて雪解けの水がポタリポタリとたれていた。壁が濡れるのを嫌って少し流れをよくすればいいと考えて、脚立にサンダル履きで乗った。そこまでは覚えているが、すーと身体が斜めになって気がついたら側溝にはまっていた。したたか胸を打った。脚立に登る時に妙な予感がした。退職した先生が庭木の剪定をしていてそのまま倒れて下半身不随になったことなどが、ちらりと頭によぎった。それでやめとけばよかったんだけれどね。
夜になって少し痛む。心配になって、救急病院でレントゲンを撮って診察してもらうことにした。何事もなければそれでいいし、悶々と心配するよりいいだろう。幸い右手は使える。
シップと痛み止めをもらう。とりあえず骨には異常がないということで、このまま時間と共に痛みも取れるでしょうということだった。ということの顛末でした。みなさん脚立には気をつけましょう。
井上直久さんのブログを読んでいたら、昨日書いた「秘密」と少し関係したようなことが書かれていた。下に勝手引用しておいたので、リンク元を訪ねてみてください。あぁやっぱり同じようなことを感じている人もいるんだなと思った。
特にアメリカ発の現代美術などはこれでもかと言うほど「自己主張」の集まりです。自己主張なくしてアートはありえない「私が、、僕が、、」のてんこ盛りですね。美大やその他の美術の専門の学校などでも多分多くは「如何にすれば人と争って勝つか」そんなことのノウハウを教えるのではないだろうか。教える先生たちがたぶんそういった世界で戦って勝ってきた人たちだから、それが唯一正しい美術のあり方だと考えているのではないだろうか。
異端だった若冲などがアメリカ経由で再び注目されるのもそんなところに根があるように思う。変っている、見たことがない、異端である、そういったことばかりが芸術の価値としてもてはやされると、敏感な若い人は争ってそんなことに血眼になりそうな気がする。
他と違うことを唯一の取りえとしているものというのは、考えてみると非常に不安定なところに立っている。なぜならそれはすぐさま真似されて他と同じになってしまう。だからやたら「コピー禁止」や著作権を主張してその権利を守るために躍起になるのでしょう。
今の世の中はお金が中心の世界だから、すべて利権がらみで物真似はいけないことという前提で成り立っている、しかし、どうなんだろう、よくよく考えると見知らぬ個人の利益を守るために、何故我々が我慢しなきゃならないのだろう。何かおかしくない?いいものはどんどん真似していいのじゃないかな。
ゴッホやダリや若冲などのように決定的に他とは違っていれば、それはそれで普遍的なものに近づくことはできるように思う。それはある種神から送られた才能だから、うらやまれることもない。ただ周りにいたひとに多大な迷惑をかけたでしょうな。
私は学生の頃に考えた。例えばここで林檎を描くとする。リアルに上手そうに描けたとする。しかし、それで一体なんなんだ?という疑問だな。例えばそれをもっと私だけの解釈で世界でどこにもない林檎を描いたとする、でもそれで世界が注目するのか?やってもやっても無駄なように思えた。
少し見えたと思った取っ掛かりはセザンヌだった。今から考えると彼の絵は自己主張しているようでしていない。「私が、、僕は、、」という声が聞こえないのだ。淡々と内に向って、ただひたすらに根源へと向って降りている。
人を驚かそうとか、人とは違うことをしようとか、自分のオリジナリティがどうのこうの、、など全く考えてはいない。自分のために、それが人のためになってやがて人類のになり世界ののになり宇宙まで広がっている。林檎を描いていてむなしくなった私を救ってくれた。今やっていることが無駄なことではない言われたような気がした。
ということでまた眠くなった。また
特にアメリカ発の現代美術などはこれでもかと言うほど「自己主張」の集まりです。自己主張なくしてアートはありえない「私が、、僕が、、」のてんこ盛りですね。美大やその他の美術の専門の学校などでも多分多くは「如何にすれば人と争って勝つか」そんなことのノウハウを教えるのではないだろうか。教える先生たちがたぶんそういった世界で戦って勝ってきた人たちだから、それが唯一正しい美術のあり方だと考えているのではないだろうか。
異端だった若冲などがアメリカ経由で再び注目されるのもそんなところに根があるように思う。変っている、見たことがない、異端である、そういったことばかりが芸術の価値としてもてはやされると、敏感な若い人は争ってそんなことに血眼になりそうな気がする。
他と違うことを唯一の取りえとしているものというのは、考えてみると非常に不安定なところに立っている。なぜならそれはすぐさま真似されて他と同じになってしまう。だからやたら「コピー禁止」や著作権を主張してその権利を守るために躍起になるのでしょう。
今の世の中はお金が中心の世界だから、すべて利権がらみで物真似はいけないことという前提で成り立っている、しかし、どうなんだろう、よくよく考えると見知らぬ個人の利益を守るために、何故我々が我慢しなきゃならないのだろう。何かおかしくない?いいものはどんどん真似していいのじゃないかな。
ゴッホやダリや若冲などのように決定的に他とは違っていれば、それはそれで普遍的なものに近づくことはできるように思う。それはある種神から送られた才能だから、うらやまれることもない。ただ周りにいたひとに多大な迷惑をかけたでしょうな。
私は学生の頃に考えた。例えばここで林檎を描くとする。リアルに上手そうに描けたとする。しかし、それで一体なんなんだ?という疑問だな。例えばそれをもっと私だけの解釈で世界でどこにもない林檎を描いたとする、でもそれで世界が注目するのか?やってもやっても無駄なように思えた。
少し見えたと思った取っ掛かりはセザンヌだった。今から考えると彼の絵は自己主張しているようでしていない。「私が、、僕は、、」という声が聞こえないのだ。淡々と内に向って、ただひたすらに根源へと向って降りている。
人を驚かそうとか、人とは違うことをしようとか、自分のオリジナリティがどうのこうの、、など全く考えてはいない。自分のために、それが人のためになってやがて人類のになり世界ののになり宇宙まで広がっている。林檎を描いていてむなしくなった私を救ってくれた。今やっていることが無駄なことではない言われたような気がした。
ということでまた眠くなった。また
イノうえ・ナおひさのイバラード日記より勝手引用
http://megezo.ddo.jp/inoue/tackynote.cgi?action
=view&year=2011&month=02&day=02&no=1071#1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
略・・
絵を描くことを仕事にする。それはもちろん
絵を描くのが好きだから、であるのは間違いない。
けれど大抵それに、いろんなものがくっついていたり隠れていたりする。
大学で教えていた頃、それも後半になって特に気になったのは、
学生の作品が叫んでいる作者の声、“自分を認めて欲しい”だった。
それは“絵を描くのが好き”を覆い隠すほどに強かった。
絵を描く楽しさや、描くことで何かを見つけるときめきよりも、
とにかく「感心して欲しい」「驚いて欲しい」「褒めて欲しい」
そして何より「自分を認めて欲しい」という、切実なそういう気持ちが、
少なからぬ数の学生作品に、見るのがつらいほどにあふれていた。
僕の絵にもそういうものはもちろんあると思う。
そういう強い思いなしには、絵を描くという独特の労力を要する作業を、
長い時間続けるのは難しいかも知れない。
仕事として絵を描いている人たちの作品にも、
上に書いたそういう気持ちが強く現れているものも多い。
けれどこの左の絵と右の絵の間の、あらためて何も意識しない時間
この世界のおもしろさだけに浸っていた時間が落ち葉のように積み重なって、
絵になっていくのが、どうも一番いい方法らしいと、いまの自分は思う。
ひとに説明するのは難しい。
特に悩み苦しんでいる画学生の、すぐの役に立つようには出来そうにない。
それで作家としてやっていけるのかと聞かれると、僕にも分からない。
ただそうやって描けた絵は、他人の目にはどうか分からなくても、
自分には面白く、不思議で、珍しい――愛でたいものになっている。
【井上直久】
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
http://megezo.ddo.jp/inoue/tackynote.cgi?action
=view&year=2011&month=02&day=02&no=1071#1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
略・・
絵を描くことを仕事にする。それはもちろん
絵を描くのが好きだから、であるのは間違いない。
けれど大抵それに、いろんなものがくっついていたり隠れていたりする。
大学で教えていた頃、それも後半になって特に気になったのは、
学生の作品が叫んでいる作者の声、“自分を認めて欲しい”だった。
それは“絵を描くのが好き”を覆い隠すほどに強かった。
絵を描く楽しさや、描くことで何かを見つけるときめきよりも、
とにかく「感心して欲しい」「驚いて欲しい」「褒めて欲しい」
そして何より「自分を認めて欲しい」という、切実なそういう気持ちが、
少なからぬ数の学生作品に、見るのがつらいほどにあふれていた。
僕の絵にもそういうものはもちろんあると思う。
そういう強い思いなしには、絵を描くという独特の労力を要する作業を、
長い時間続けるのは難しいかも知れない。
仕事として絵を描いている人たちの作品にも、
上に書いたそういう気持ちが強く現れているものも多い。
けれどこの左の絵と右の絵の間の、あらためて何も意識しない時間
この世界のおもしろさだけに浸っていた時間が落ち葉のように積み重なって、
絵になっていくのが、どうも一番いい方法らしいと、いまの自分は思う。
ひとに説明するのは難しい。
特に悩み苦しんでいる画学生の、すぐの役に立つようには出来そうにない。
それで作家としてやっていけるのかと聞かれると、僕にも分からない。
ただそうやって描けた絵は、他人の目にはどうか分からなくても、
自分には面白く、不思議で、珍しい――愛でたいものになっている。
【井上直久】
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
はる 3516
昨日「就職しないで生きる」といったことを書いた。もし定職を持っていたら違った生き方になったでしょう。まぁ人は二つの人生を歩むことが出来ないので、どうなのかはっきりとは分からないのだけれどね。人生のある時期にどちらを選ぶのか選択を迫られる。無論どちらが正解というのではない、どちらでもいいのだけれど結果的には大きく変ってしまう。
絵を描くことと生活が直接つながるとは考えられなかった。「絵描きになりたい」とは思っていたけれど、それが何を意味するのか、正直いって何も考えてはいなかった。場当たり的に学校の先生の職を辞してしまって、もう取り返しがつかないところまで追い込まれていた。何をやっても長続きしない、だめ男だと自分でもそう思って情けなかったな。普通なら実家の関西に帰るのが筋なのだが、今更おめおめと帰省するわけにも行かなかった。行くところがないので、学生時代すごしたここにすごすごと帰ってきたのだ。結果的には絵描きという生き方を選んだように見えるけれど、ある意味こうするしか仕方なかったというのが本当のところだ。
私は絵を描いて生きてはいるけれど、どうもプロの作家になりきれないところがある。というのは注文に応じてだれそれの肖像を描くわけでも、こうして欲しいという期待に応じるわけでもない。職人のようにある一定のグレードの製品が出来るわけでもない。実にあやふやな、自己満足の基準で作品を作っている。まぁ私自身の判断ではいいと思ってはいるのだけれど、世間一般ではどうなのかわからない。何十年もやってきてこれだから本当に困る。それで平然と個展をやって人様に見せているのだから恥知らずと思われても仕方ない。でもまぁそれでも生きてゆけるのだから、反対に続けてもいいということだろうと解釈している。積極的にこれが私の選んだ道だとは言えない。
秘密と言うほどのことではないのだけれど、気付いていることを書いてみる。多くの人は「私を見て」というために絵を描いている。だからどんな絵にも「私が、、ぼくが、、」という自己主張の声しか聞こえない。一点や二点なら聞いてもくれるだろう、でも大体が飽食で気持ち悪くなる。私は反対に見る人を「引き込もう」と考えている。出すのと入れるのでは180度違う。何か共通の想いを持つこと。誰にでもどこにでもあるものを探すこと。いつもの話に戻ってきてしまった。
もう少し書きたいけれど、眠くなった。また。
昨日「就職しないで生きる」といったことを書いた。もし定職を持っていたら違った生き方になったでしょう。まぁ人は二つの人生を歩むことが出来ないので、どうなのかはっきりとは分からないのだけれどね。人生のある時期にどちらを選ぶのか選択を迫られる。無論どちらが正解というのではない、どちらでもいいのだけれど結果的には大きく変ってしまう。
絵を描くことと生活が直接つながるとは考えられなかった。「絵描きになりたい」とは思っていたけれど、それが何を意味するのか、正直いって何も考えてはいなかった。場当たり的に学校の先生の職を辞してしまって、もう取り返しがつかないところまで追い込まれていた。何をやっても長続きしない、だめ男だと自分でもそう思って情けなかったな。普通なら実家の関西に帰るのが筋なのだが、今更おめおめと帰省するわけにも行かなかった。行くところがないので、学生時代すごしたここにすごすごと帰ってきたのだ。結果的には絵描きという生き方を選んだように見えるけれど、ある意味こうするしか仕方なかったというのが本当のところだ。
私は絵を描いて生きてはいるけれど、どうもプロの作家になりきれないところがある。というのは注文に応じてだれそれの肖像を描くわけでも、こうして欲しいという期待に応じるわけでもない。職人のようにある一定のグレードの製品が出来るわけでもない。実にあやふやな、自己満足の基準で作品を作っている。まぁ私自身の判断ではいいと思ってはいるのだけれど、世間一般ではどうなのかわからない。何十年もやってきてこれだから本当に困る。それで平然と個展をやって人様に見せているのだから恥知らずと思われても仕方ない。でもまぁそれでも生きてゆけるのだから、反対に続けてもいいということだろうと解釈している。積極的にこれが私の選んだ道だとは言えない。
秘密と言うほどのことではないのだけれど、気付いていることを書いてみる。多くの人は「私を見て」というために絵を描いている。だからどんな絵にも「私が、、ぼくが、、」という自己主張の声しか聞こえない。一点や二点なら聞いてもくれるだろう、でも大体が飽食で気持ち悪くなる。私は反対に見る人を「引き込もう」と考えている。出すのと入れるのでは180度違う。何か共通の想いを持つこと。誰にでもどこにでもあるものを探すこと。いつもの話に戻ってきてしまった。
もう少し書きたいけれど、眠くなった。また。
**
***
****
ブログ内検索
アーカイブ