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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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私の絵に似ているなぁ・・。
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はる 2788
 個展の後片付けがやっと一段落した。ここからは春先まで団体展のお祭りモードになります。個展だけを発表の場にしている人には信じられないかもしれませんが、この活動が一年の三分の一を占めているのです。押し詰まってくると一週間以上泊まりこみになります。しかもすべて手弁当のボランティアです。

 話題を変えて
 「奇跡のリンゴ」というリンゴ農家の話を読んだ。NHKの「プロフェッショナル」でやったそうだから観た人も多いかもしれない。私はまったく知らなかった。

 まぁ今はやりの無農薬ものだろうとあまり関心もなかったのだが、家人が薦めるので暇つぶしに読み始めた。無農薬の自然農法といえばわれわれの世代では先駆的な福岡さんが有名だけれど、まぁ理想的ではあるけれど現実的ではないという印象だな。

 読み進むうちに夢中になって一気によんでしまったんだけれど、まぁすこしテレビ的な演出が入っているのかなとも思うのだけど、結構、感動的だった。

 最近の食の安全という点から無農薬の野菜だとか食材の話はよく聞く。自給自足でもない限り必ず食料はどこかから手に入れなければならないわけで、ごく最近までどこで作ったものかなどということは問われることはなかった。ダイエーが全国的に台頭してきたのもとにかく安いということが売りだったわけだから、産地はどこでもよかったわけだ。

 ところがまぁ最近の流れを見ていると安いということより誰が作ったかとか、どこでつくったかといった、生産者の存在が注目されるようになってきた。それというのも環境ホルモンや農薬汚染のこともそうだけれど、食というものが工業と同じように生産品として作られたり売られたりすることの不安からきているように思う。

 昨年の殺虫剤入りの餃子などというのは例外的なことで、そんなことだけに注目すると本質を見失う。

 基本的に食は人間というのか生物のもっとも根幹にあることで、そのことをいいかげんにして人は存在できないということだ。食というのは農業のことなんだな。けっしてあそこがうまいここがおいしいというグルメのはなしではない。

 無農薬農業といえば理想のように聞こえる。自然農法ができるならだれでもそれに従うだろう。けれどそんなに生易しいものではない。考えてみればわかることだが、農業そのものが自然なものではない。同じ作物だけが単一に生育するという環境は自然にはないわけだ。そこにすでに無理があるわけで、そもそもそうやって不自然な環境を作ったがために、それを制御する農薬が必要になってくる。

 無農薬農法というのはそもそも根本からありえないことなんだな。自然じゃない人工的な環境(畑や田んぼ)を作っておいて、何もしないでは敵に裸で戦いを挑むようなものだ。結果は最初からわかっている。

 例えば虫が来たら網をかけるとか手で払うとか手で取るというのは、一見正しい無農薬農法のように見える。じっさいほとんど場合そういった対処を期待する。でもそれは根本的に間違えている。それは農薬の代わりを手や網でやっているに過ぎない。それでは永久に働き続けなくてはならないし、それでも多分病気にやられてしまうだろう。防ぎきれないのだ。なぜならそれは不自然な環境だからだ。

 地産地消の話ととてもよく似ている。日本家屋が高床式で紙と木と土でできているのにはわけがある。その環境で取れたものでつくったものが一番自然なわけだ。格好がいいからという理由で密閉型の小さい窓のカナディアンハウスを作ってもそれは自然じゃない、本物ではない。

 因果応報という必ず原因があってその結果が今の状態をつくっているわけだ。反対にいえば今の中に過去も未来もある。病気になれば薬を使う。虫がくれば殺虫剤を使う。一見正しい選択だけれど、そこだけ見ると見まちがう。病気になったのは、どこかに無理があると教えてくれたものだ。虫が大量に発生したのはそこのところに無理があったからだ。自然のバランス感覚が教えてくれているのだ。

 詳しい内容は読んでもらえばいいのだけれど、結局何かいつも言っていることにつながるんだな。吉田秀和の「永遠の故郷」ではないけれど本当に、こう宇宙の成り立ちみたいなことにもつながるんだけれど、ひとつのもの中に永遠が隠れている。「セザンヌの塗り残し」ともつながる。

 一本の線は、点は、色は必ず全体の中で絶対に必要な場所に必要なだけ存在する。それを感じるのがわれわれの仕事だし、この本を読んでますます確信をもった。
 




はる 2787
 いつも早めに確定申告に出かける。フリーな仕事になって初めて確定申告の用紙が来たときはけっこう驚いた。何のことはない普通に申告すれば収めすぎた税金は戻ってくるのだ。定職を持っている人には関係のないことかもしれないが、まぁ退職して年金暮らしになれば自分でしなければならないか。

 色々なところから雑収入があるので、すべてを正確にカウントすることは難しい。いや是非とも正確に申告せよというのであれば、自由業は不自由業になってしまう。どこからどこまでが生活なのか、仕事なのか、必要経費なのかわからない。職住一体なのでいいかげんだ。税務署の関係の方は読んでいないだろうか。

 申告の相談所があって毎年大体の下書きをして出かける。出来るだけ色々な領収書を取っておくことだ。画材はもちろんだけれど、個展の際の交通費や滞在費も経費だろう。宅急便や郵便もそうだ。実際意外に経費はかかっているものだな。

 そうやって申告が終われば何となく一年が終わったなぁと思う。


 
はる 2786  
 今日は学校でこれを書いている。ゆえにひらがなばかりではない。  

昨日かな辺見庸の番組を観た。まぁきっかけは先だってのアキバの事件からの話からだったけれど、実はもっともっと深いところの話をしているように感じた。人の生き方というのか、いままで正しいとされていた生き方を一番低いところから問うていたように思う。
 
 公立の学校の教師をしていた時に感じたのは、公教育というのは要するに「国のためになる」人材を育てることを究極の目的にしているのかなということだった。まぁ義務教育というのは国がお金を出している訳だから、当然そういったことになる。そう考えると、なんだかすごく傲慢で、恐ろしいことのように思えてきた。
 
 本来教育というのは個人のもので、個人の才能というのか能力を気付かせる、個人が人生をより充実して楽しく暮らせるように、自己啓発のためにあるのではないかな。そうでなければ生きることはつまらないことになりはしないか。
 
 そこから出発して仕事について考えた。仕事と言うのはお金を稼ぐためだけに仕方なくやる必要悪的なものかということだ。そうなってくると、極力効率よくお金を稼いだものが優れていて、それ以外は負けたということになる。

 「すばやく、効率よく、簡単に」というのがグローバルスタンダードということになれば、働く人の八割がたは落ちこぼれてしまうのではないだろうか。
 
 そうやって効率よく働いて、駆けずり回って、はたして何がのこるのだろう。「ハイ生きました」「ハイ一丁あがり」「ハイそれではお仕舞です」何のためにこの人生があるのだろうか。
 
 その時代の真ん中にいるときは見えないものだ。やれグローバルだやれ規制緩和だ、自由競争だ、能率だ、効率がすべてだ、生産管理などなど。そういったことすべてが全くその通りで伝家の宝刀で、唯一正しい事のように思っていた。みんながみんなそれに納得していたではないか。
 
 ところが、その結果は惨憺たるものだ。「生き急ぐ」「一丁上がりの人生」何も見ていないし、何も感じていない。要するに生きてはいない。

 昔には帰れない。多分これからは「遅い、非効率、不便」をあえて選ぶ時代が来る。それがかっこいい時代がくる。そんな予感がする。

(閑話休題)
 ひらがなでグーグル「かんじへんかんでふりーず」と検索したら、いろいろと出てきた。なんと便利な道具なんだろうか。で、意外に多くの人が同じトラブルに遭遇していることがわかった。

 もうこのパソコンはお釈迦にするしかないと思っていたのだけれど、なんと復活した。原因は「漢字辞書ファイルの破壊」だそうだ。でまったく手探りだけれど、うまく回復することができた。同じような症状に困っている人のために、以下に回復方法を書いておく。お試しあれ。

1「スタート」-「設定」-「コントロールパネル」から「キーボード」を起動
2「言語」タブをクリック、「プロパティ」をクリック
3「辞書、学習」タブをクリック辞書ファイルを確認
4「修復」ボタンをクリック
 あとはすべてOKをおしてクリアー
 これだけで回復するのだな。知らなければ新しいものを買うしかなかった。すごいことだ。やってみるだけの価値はある。

 



 
 へんかんすると ふりーずするので、ひらがなばかりでかく。たぶんこのままだめになるかもしれない。いまからばっくあっぷにかからなければならない。ふるいぱそこんでもかうかな。しばらくこうしんできないかもね。ではでは。

 しかし、これはこまった。へんかんするとすぐにふりーずする。うぃんどーず98はもうだめかな。しょきかしてもいきかえらないかしらね。だれかいいほうほうしりませんか?



 
家の前のボロイアパートが重機が入って解体工事を始めた。ちょうど私が留守にしている間に始まった事で、どうにもこうにも仕方がない。こうやってあらためてながめると地震か爆撃にあった戦地のようだな。すごい状態だ。

 昔はなんでもかんでも産廃にして埋め立てに使っていたけれど、最近はリサイクルがうるさくてかなり細かく分別するようだ。どかどかどんどんぶっ潰してトラックに積み込むというわけには行かないようだね。こういった工事現場はとても好きなんだな。何かワクワクさせるものがある。がれきの山には創造力をかきたてられるものがあるね。まだまだ使えそうな柱がバリバリ折られてしまうのが悲しい。

 解体を請け負っているトビの人は親方は日本人だけれど、重機を動かしているのはペルーから出稼ぎに来ているおっさんだ。「家の中、腐ってボロボロね」日本語がめちゃくちゃ上手い。「しばらくうるさくてごめんなさい」などと言われると、まぁ仕方ないかと思ってしまう。言葉は大切だね。かえって日本人のニイサンは無口で恐い。あいさつぐらいしなさいよ。

 よく働く。雨の日も休まず働いていた。隣の分譲住宅を建てていたのはカナダから来たカーペンターだった。で今回の解体屋さんはペルー人。身体を使って働く労働者は外国人が多い。そのうち日本人は退化するのじゃないかね。



 
はる 2783
 グループ「TAO]展の打ち上げがつつじヶ崎温泉であった。少し早めに行って先に温泉につかる。私が指導しているといっても実際は私が一番年下という奇妙な上下関係で、長老は80幾つかの爺さまです。とても「先生でございます」などとおこがましくて言えない。

 十や二十歳の若者なら何とか誤魔化せても、私何かより多くの人生経験のある大人を言いくるめるのは難しい。何とか取り繕ってもいずれは化けの皮がはがれる訳で、まぁ自分の地で行くしか方法はない。でもまぁ、そこがこういった芸事の面白いところかもしれない。
 



 
はる 2782
 ものを考えることは楽しいことだ。昔入院した時に本を読むよりノートに何か書いていることのほうが楽しかったし、時間がつぶれた。ものを考えるのは紙と鉛筆一本あればできることで、退屈しないで上手に生きてゆく方法は案外これしかないなどと思う。
 



グループ「TAO」展
明日が最終日です。
はる 2781
 「画家の仕事」
 神戸を出てからかれこれ40年になる。ここのところほぼ隔年に神戸で個展を開催しているので、街で偶然お目にかかった人もいるかもしれない。「神戸の文化人」ということでお話をいただいたのですが、神戸出身という点ではそうなのですが、文化人なのかどうか若干疑わしいところもある。

 私が画家になりたいと思ったのは、普通の人より遅くて二十歳を過ぎてからだ。画家になりたいというハッキリした夢を持っていたのでもなく、ただ漠然と絵を描いて行ければなぁと考えていただけで、いまでいうニートのはしりのようなものだ。

 画家というのは不思議な職業で、ただ絵を売ることだけが仕事かといえばそうでもない。「詩人」というのが職業でないように「画家」というのもそれに近いニアンスを含んでいるように思う。だから、今でも自分は画家ですとはっきり言えないところがある。ただ絵を描く職業であるなら、イラストレーターとか漫画家とかそういった仕事もある。絵を描くことが好きだというならそういった選択もあるだろう。

 人が動物から「にんげん」になった時に、神さまから考える「知恵」をもらった。そのかわりに「不安」といういらない物までもらってしまった。この「知恵」と「不安」は表裏一体のもので分ける事ができない代物だ。故に人間である限り抱えて行かなければならないものだ。

 「思索家」とか「散歩家」とか「表現家」とかそんな言葉が気に入っている。自分がなぜここにいるのか、人とは何なのかを絵を描くことで考えてゆくのが、私の仕事のように思っている。
 
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